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みんなの「独り言」ブログ

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「大鎧の構造(4)」
「大鎧の構造(4)」 小生の意見は、「韋は縅の糸を切られることを防ぐのが目的」ですから、綿甲のように札を縫い付ける必要はないのです。また、一面膠貼りしてしまうぐらいならば、脇楯のように鉄板にするべきでしょう。 ...続きを見る

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2012/04/20 19:39
大鎧の構造(3)
大鎧の構造(3) 鳩尾の板は馬に乗って弓を引くと無防備になる左脇上部を防御し、栴檀の板は右手で太刀を振るうときにがら開きになる右脇上部を保護するためにある楯状の部品であり、両方とも高紐が切られるのを防ぐ役目もしているというのが通説であるが、実際にはそのように動かないのだから、説得的ではない。付ける位置が綿上から垂下するというのでは、始めからが不適当だからである。 ...続きを見る

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2012/04/12 11:27
矛と放免
大江希望という人の「長谷部信連を巡って」というHP <http://www.ne.jp/asahi/kibonosumika/kibo/note/nob/nob-1.htm#mokuji>に出会った。 ...続きを見る

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2012/04/09 08:01
大鎧の構造(2)
大鎧の構造(2) 昨日書き忘れたが、もう一つある。 それは常に鎧突きをして小札に隙間を開かさないようにしろということからすると、前胴だけは鎧突きをしなくても隙間ができなように絵韋を膠で貼り付けることで小札を固定しているのではなかろうか。 ...続きを見る

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2012/03/27 16:12
大鎧の構造(1)
大鎧の構造(1) 大鎧の構造は謎が多いが、その最たるものが弦走りと鳩尾板や栴檀板という矛盾した存在である。 ...続きを見る

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2012/03/26 14:41
乗馬を射る
乗馬を射る 関幸彦『武装/いくさ』には、「馬を射るなとは騎馬武者相互のルールであったが、ここ(鴉鷺(アロ)物語)にあっては完全にそれは無視されている。…こうしたルール無視は、源義経による「水夫射ち」の先例もあり、これが南北朝の新戦法というわけではないが、量的事例からすれば、個人レベルでの「武威」の発揚ともいうべき「兵の道」への自覚が薄れつつあったことは疑いない。」とある。 ...続きを見る

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2012/03/26 12:55
首とり
首とり 『武装/いくさ』(関幸彦)に「歩兵の大量投入で戦闘が大規模となると、機動性の面でこの(首掻き)方法では対応できず、首をその場に捨て戦闘を継続することが一般化した。」とあった。だが、この説明では要領を得ない。何故なら、首取りは後々まで行われ、戦闘の最中も二つも三つもの首が持ち運ばれていたからである。 ...続きを見る

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2012/03/26 12:43
源為朝vs大庭景能
源為朝vs大庭景能 弓の名手・源為朝が坂東武者・大庭景能を射損ねたという話が『吾妻鏡』にある。 ...続きを見る

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2012/03/11 08:47
騎射(2)
福田豊彦 著『いくさ』には、「歩射戦に比して馬上の動揺が激しい騎射では、上半身を前傾させて射るのも弓の引き方に限界があったことによる。」ともある。だが、これにも疑問を感じる。 ...続きを見る

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2012/03/10 12:03
騎射(1)
騎射(1) 福田豊彦 著『いくさ』を読んでいる。そこに、「甲を着用した騎馬戦にあっては、弓を充分に引き絞れば弦が兜の吹き返し部分に当たる。そのため的中はなかなかむつかしく、一の矢・二の矢とまさに矢継ぎ早に二の矢を番えことが必要となる。」とあった。 ...続きを見る

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2012/03/09 16:34
『鴉鷺物語』
福田豊彦著『いくさ』を読んでいる。そこに「首に心をかけて向かふ敵を逃すべからず」という『鴉鷺物語』の一説があるのだが、著者はこれをもって「徹底した“大物狙い”共云うべき指示が語られているが、ここで留意したいのは“分捕切捨の法”が示されていることである。」と言われる。 ...続きを見る

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2012/03/07 14:26
鉄炮長
鉄炮長 『信長公記』十五巻・信長公甲州より御帰陣の事に「路次通り鉄炮長(ダケ)竹木を皆(海)道ひろゞゝと作り」とある。これを何と訳して良いか分らなかった。角川版は、「鉄炮の長さ。鉄砲隊が通れるように竹木を伐り払って道を拡張した意であろう。」と注しているが、納得できないものがあったからである。 ...続きを見る

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2012/01/12 19:38
桐野作人著『織田信長』(36)
桐野作人著『織田信長』(36) p442.に「秀吉は西国で(信長譲りの残虐さで)厳しく攻める可責をし、その成果というべき見上げ=土産を持参せよと信長から発破をかけられていたことがわかる。」とあるが、是はどう考えても誤訳だろう。 ...続きを見る

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2012/01/10 13:23
近衛信長
近衛信長 『尋憲記』によると、天正二年(1574)三月の京都人の噂では、信長が五摂家の近江殿になり、子・茶筅が将軍になるという噂が専らであり、関白の二条晴良が信長に関白職を譲るだろうとの噂もあったという。 ...続きを見る

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2012/01/10 07:55
桐野作人著『織田信長』(35)
桐野作人著『織田信長』(35) 橋本政宣(1982)氏は、陣宣下に不可欠な陣座の普請をめぐる信長の義昭への対抗心が興味深いといわれるらしいのだが、これにも異見がある。前回述べたように、かぎや散人の見解では、信長が目指した公家一統とは天皇の象徴化であったから、何事も伝統に則って正式であることが求められることになる。だから、信長が義昭を非難する、朝家に対する無沙汰・御油断とは、「仮に取り立て了」というようなことも言うのであろう。だから、信長には、義昭への対抗心などはなかったはずである。象徴化すべき対象にライバル意識を持ってしまって... ...続きを見る

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2012/01/08 13:12
桐野作人著『織田信長』(34)
桐野作人著『織田信長』(34) 天正三年十一、信長は従三位権大納言に叙任され右近衛大将を兼ねたのだが、桐野氏は「信長の真意は将軍以上で、足利将軍越え、とくに義昭越えを達成したという認識ではなかっただろうか。」とされる。しかし、これには異見がある。なぜなら、信長の目指した政体は、政教分離と武家血統からの独立であったと考えるからである。 ...続きを見る

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2012/01/08 12:13
桐野作人著『織田信長』(33)
桐野作人著『織田信長』(33) p178.「信長が箕作城を「御馬廻」=旗本馬廻衆に攻めさせたのは、他国衆の戦意のほどに疑念があり、それほど信頼していなかったからだろうが、それとは裏腹に尾張統一段階でよく見せた旗本馬廻衆を駆使した戦い方に習熟していたせいだろう。」とあるが、異見がある。 ...続きを見る

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2012/01/07 16:40
桐野作人著『織田信長』(32)
桐野作人著『織田信長』(32) p347.「信長が義昭との交渉に必要以上の時間を費やしたのは、義昭を筋目を通さない公方であり、これでは公儀失格だという印象を世間に与えることで、義昭との戦いを正当化するためだった。」とあるが、これは間違いだと思う。 ...続きを見る

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2012/01/07 10:16
異見十七ヶ条
『織田信長』で桐野作人氏は、「信長は義昭に宛てて異見十七ヶ条を送り付け、厳しく弾劾した。」とされるが、これには不同意である。何故ならば、これまで元亀三年五月十三日付けで足利義昭が信玄から誓詞を誓う起請文『戦武4049(大槻文書)』を受けとったとされてきたものが、鴨川達夫によって元亀四年の信玄他界後のものであるとされたからである。 ...続きを見る

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2012/01/05 16:57
元亀三年とは何か
元亀三年とは何か 信長が当初描いた戦略が挫折したという意味で一つの画期である。 ...続きを見る

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2012/01/05 14:47
本願寺参戦の不思議
本願寺参戦の不思議 『勧修寺文書』は、「信長」が大坂本願寺に対して「謀叛」が「重々歴然」としており、「上意」(義昭)が「信長」に「御一味」して「御儀絶」したことを理由に、下間「証念」頼総が「上意」と「信長」へ宣戦布告したのだという。 ...続きを見る

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2012/01/01 16:24
桐野作人著『織田信長』(31)
p159.「信長は龍興との和睦と共に上洛の準備を始める。…信長が逡巡し始めるのである。それはおそらく龍興が和睦の約束を遵守しないのではないかという不安のためだろう。…義秋による藤孝と惟政を介した(六月十日以降の)必死の説得が功を奏したのか、信長は再び上洛を誓う。それを受けた義秋もまた(七月下旬に)畿内近辺の大名や国人たちに報じ合力をするよう命じた。…閏八月十八日付けの信玄宛連署状によれば、(実際は、河野島の敗戦で)信長が上洛を断念してしまったのである。…信長の上洛が無いと判断した三好三人衆は…(... ...続きを見る

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2011/12/25 08:39
桐野作人著『織田信長』(30)
桐野作人著『織田信長』(30) 稲葉山城は、何時そして何故、斎藤龍興に返還されることになったのか。 ...続きを見る

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2011/12/24 15:49
桐野作人著『織田信長』(29)
桐野作人著『織田信長』(29) p144.「すでに義竜が亡いとはいえ、信長は斉藤氏に政略的・外交的に優越する必要があった。その突破口の一つが…輝虎との同盟だったのではないか。」と言われるが、これには事実誤認がある。 ...続きを見る

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2011/12/24 15:22
桐野作人著『織田信長』(28)
桐野作人著『織田信長』(28) p141.「信長は永禄四年から六年にかけて、松平・浅井の両氏と同盟を結ぶことに成功した。」と主張されているが、これは事実誤認だし、「お市との関係についても、通説通りでよいのではないか。」といわれるのだから、矛盾している。 ...続きを見る

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2011/12/23 17:34
桐野作人著『織田信長』(27−4)
桐野作人著『織田信長』(27−4) 西軽海には西村勘九郎(斉藤道三)が居城としたといい、永禄年間には池田勝入の家臣・片桐半右衛門が要害を構えたという伝承がある。そして、『武功夜話』は、「扨永禄酉(四年)四月日、上総介信長様、三千有余之人数相催し森部ニて御取合被成候、作間右衛門尉、森三左衛門、佐々内蔵助、軽身なる処ニ出入仕る、」というのである。だとすると、最初の十九条の合戦は、十四条に布陣して軽海西城と十九条城との連絡を断ち、軽海西城を攻撃・排除しようとした斉藤軍の目的を察知した十九条城の織田広良が後詰に出て起こった合戦だったという... ...続きを見る

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2011/12/22 11:43
桐野作人著『織田信長』(27−3)
桐野作人著『織田信長』(27−3) 五月廿三日、斉藤方は井之口城から“惣”人数で出兵し、墨俣北方の十四条(現真正町)に進出した。 “惣人数”というから美濃国=斉藤家の全兵力と言う意味であろう。 信長は墨俣から足軽を出したとしか書かないのだが、十四条と墨俣では7km強と距離が有りすぎる。 斉藤勢は何のために十四条にいたのか。朝合戦は何処で戦われたのか。 墨俣合戦という伝承はないのだから、十四条で戦われたのであろう。 ...続きを見る

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2011/12/22 11:40
桐野作人著『織田信長』(27−2)
勝村公(タダシ)氏は、『武功夜話異聞』で、「信長公記は、別項扱いで木曽川・飛騨川を越えたことを再度書いている…(だから)十四条合戦(は)…永禄五年であると見なさざるを得ない。」とされるが、これは是認できない。 何故なら、『信長公記』は雑多なメモの集積であり、十分な校正・編集を経ていないからである。だから、「再度書いている」ことをもって、年次が違うということは言えないのだ。 ...続きを見る

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2011/12/22 11:36
桐野作人著『織田信長』(27−1)
桐野作人著『織田信長』(27−1) p138・「(森部合戦で)敗退した斉藤方は墨俣を放棄したと見え、代わって信長が当地に要害を築いて帯陣した。すると五月廿三日、今度は井口から斉藤方の新手が押し出して、十四条に陣取った。十四条は墨俣の北にあり二里ほど離れている。織田方が墨俣から足軽を押し出したので、朝合戦となった。織田方は瑞雲庵弟という者が討死していったん引く。斉藤方は十四条のすぐ北の北軽海に移動し、陣を西向きに構えた。」とされる。 ...続きを見る

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2011/12/22 11:31
桐野作人著『織田信長』(26)
p131.「十九日の出発点が首巻が沓掛、『三河物語』が池鯉鮒とする点が異なるが、…首巻の「戌亥」の方角が義元の目的地としてどこを指すか不明ながら、『三河物語』ははっきりと「大高」と書いている。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/20 16:38
桐野作人著『織田信長』(25)
桐野作人著『織田信長』(25) p127「今川方全軍の動きや織田方のそれへの対処、あるいは進撃経路といった途中経過が省略されているきらいがあると指摘した。」という認識は、無い物ねだりでしかないだろう。現代におけるニューヨーク観光の旅行記でも成田からニューヨークに行ったと書くことは普通であり、余程のことがなければ成田・ニューヨーク間にかかった時間や道中のランドマークなどは記事にされないだろうからである。牛一の記述に矛盾が生じない限り、何かが省略されていると考える方がおかしいのである。 ...続きを見る

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2011/12/20 14:22
桐野作人著『織田信長』(24)
桐野作人著『織田信長』(24) p113.「首巻(陽明本)によれば、信長は今川軍が迫っている事を承知しながら、軍議さえ開かなかったという。…しかし『天理本一』にはこれと異なる記事がある。…信長は軍議を開いたのである。…どちらも軍事カリスマの発現形態であることは共通している。…もし牛一が軍事カリスマとして描写する意図をもっていたとしたら、陽明本のほうがより完成された姿であり、天理本はその途上の姿ではないかと思う。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/20 10:22
桐野作人著『織田信長』(23)
p112.「橋場説で興味深いのは、@大高城が知多半島の付け根に位置する舟運拠点で、伊勢湾交通を睨む要所であること。A…今川方の軍事行動が南東の季節風が吹く夏から初秋にかけて起こされていることから、海上交通を利用した作戦企画があるのではないか、という二点である。」 ...続きを見る

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2011/12/20 09:56
桐野作人著『織田信長』(22)
桐野作人著『織田信長』(22) p108.「義元は(山口)父子を駿府で誘殺し、代わりに譜代衆の岡部元信を城番としている。これは向背定かならぬ国境の国人を除くことで、領国化する狙いがあったと思われる。」とあるが、疑問である。山口ほど織田方の切り崩しに貢献した者はいないからである。 ...続きを見る

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2011/12/20 09:51
桐野作人著『織田信長』(21)
桐野作人著『織田信長』(21) p107.「今川方の攻勢、織田方の守勢という、ここ十年間の基本的な趨勢に変化が生じたのは、やはり信長が伊勢守家を滅ぼした永禄二年からである。」とされるが、かぎや散人はもっとはやくからだと考える。 ...続きを見る

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2011/12/20 09:45
桐野作人著『織田信長』(20)
桐野作人著『織田信長』(20) p113.「天文弘治年間には大高城は水野氏の持城だった。…水野氏としてはその奪還を望んでいたはずである。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/19 14:41
桐野作人著『織田信長』(19)
p112.「今川義元が公称四万五千という大軍を率いていること、また服部左京助らが率いる軍船千艘も義元に味方していることを見ると、単なる国境紛争ではなく、もっと大きな目的があったとは考えられないだろうか。近年、橋場日月氏(2008)は…義元が伊勢湾の海上交通確保をめざしており、それによって信長の経済基盤に打撃を与えるのが目的だったのではないかとしている。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/19 14:38
桐野作人著『織田信長』(18)
p106・「海西郡の一帯に勢力を張るのは二の江(荷之上)の「坊主」や鯏浦の服部左京助などである。」とあるが、果たして「二の江の坊主」と「うぐゐらの服部左京助」は別のものであろうか、それとも坊主である服部左京助が正しいのだろうか。 ...続きを見る

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2011/12/19 12:51
桐野作人著『織田信長』(17)
p96.「信長は岩倉城の背後=北方に回り込んで、丹羽郡浮野に布陣した。一見して奇異な方角への出兵である。…岩倉城の南面は「この表節所」だからという理由からである。もう一つは、犬山城主の織田信清と連携できる利点も大きかったと思われる。…信長は岩倉城の南面は守りが堅いため、攻撃するのは難しいと判断したようである。…七月十二日に信長が浮野に布陣したことも、首巻の記事だけだと唐突に感じられるが、(『武功夜話』の記事によって)四月の時点で付城が築かれていたと考えれば、合点がいくのもたしかである。」とある。... ...続きを見る

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2011/12/19 08:53
桐野作人著『織田信長』(16)
p89.「岡田正人氏によれば、…信勝は天文廿二年十月から翌廿三年十一月までの間に(守護・斯波義統の偏諱である達をもらって)達成と名乗っている。(それは)同廿三年四月、…(守護代)織田(大和守)彦五郎が自刃しているのと、達成名乗りはほぼときを同じくしている。(そこで)岡田説は、信勝が守護代家を継承する意図があったのではないかとする。」 ...続きを見る

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2011/12/19 08:39
桐野作人著『織田信長』(15)
p86.「名塚は於多井川(庄内川)の南岸にある。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/18 11:33
桐野作人著『織田信長』(14)
桐野作人著『織田信長』(14) p85.「篠木三郷(春日井市内津)は清洲から東北方六里ほどだが、信勝は二度目の挙兵でもこの地の押領にこだわっている。首巻は「能き知行」と記しているから、押領するには格好の対象だったのかもしれない。」とあるが、「格好の対象」とは、どういう意味だろうか。 ...続きを見る

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2011/12/18 11:31
桐野作人著『織田信長』(13)
p81.「信勝の守山(城下)放火については、(信長は)何も述べていない。信勝は信長の許しを得ずに勝手に行動したと思われる。信長は家中の訴訟沙汰を裁定する権限を持っていて、当然その対象となるべき事柄のはずだが、弟・信勝の暴走=自力救済に何らかの処罰をした形跡は見られない。信長にはそうするだけの実力がなかったと考えるほかなく、両者の微妙で拮抗した力関係がうかがえる。」 ...続きを見る

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2011/12/18 11:27
桐野作人著『織田信長』(12)
p77.「守護代方は…次々と破られ、柴田勢が町口大堀のなかに侵入するのを許した。これは清須城の内郭という意味か。」とされている。 ...続きを見る

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2011/12/17 15:17
桐野作人著『織田信長』(11)
p67.「天文廿二年七月十二日、坂井大膳・河尻左馬丞らは談合して、守護の斯波義統(ヨシムネ)を謀殺する挙に出る。…信長の命令で(十八日)柴田勝家が清洲城を攻めた。」とある。ここで問題にするのは、年次比定と「信長の命令」と主張されることへの疑問だ。 ...続きを見る

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2011/12/17 09:25
桐野作人著『織田信長』(10)
信秀が没した直後の天文廿一年六月と思われる道三の織田玄蕃允宛て書状がある。案ずるに、道三が信長の実際の人物を知る以前に、「此方においても迷惑せしめ候」や「仰せ談ぜられるべき事、然るべく候」は兎も角、「寄り退き候はざる間、共々捨て置かれず」と言うわけで、会見を申し込んだと見るべきだろうか。そこまでは良いとしても、道三が「三郎殿様御若年の義に候、不端(断)のご苦労尤もたるべく候」と信長に対する理解を示して、「何篇重ねて使者を以てご存分承るべく候」そして「猶、来音を期され候」とまでの厚意を玄蕃允に示す... ...続きを見る

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2011/12/16 17:55
桐野作人著『織田信長』(9)
桐野作人著『織田信長』(9) p72.「九郎二郎勢が鳴海から出城して赤塚に陣取った時点で、信長の目論見は潰えたばかりか、逆に挟撃されて一挙に劣勢に追い込まれてしまった。…(戦いが)短時間で終わってしまっているのも、信長は一戦した後、退却する心算ではなかったか。」と言われるが、これには賛成できないことは、前にHPで述べた。 ...続きを見る

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2011/12/16 17:52
桐野作人著『織田信長』(8)
p62「朱鑓(五百)と弓・鉄炮(五百)の数が御伴衆(七、八百)より数が多いが、おそらく概算で少し誇張されているのだろう。」と言われる。だが、朱鑓(五百)と弓・鉄炮(五百)の合計数(千)が、御伴衆(七、八百)より多いと読むのは明らかに間違いであろう。 ...続きを見る

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2011/12/16 13:18
桐野作人著『織田信長』(7)
p511で桐野氏は、「信長はいつ譲位・即位を執り行うか明言しておあらず、信長は婉曲に断るというのが本音だった。」とされるのが、賛成できない。 ...続きを見る

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2011/12/14 11:41
桐野作人著『織田信長』(6)
p541に「七日に帰京した晴豊は村井貞勝を訪れ、『村井に安土よりの返事』を伝えている。その後、三職推任の話題はまったく消えてしまう事から、信長は推任を断ったと考えるのが妥当な見方だろう。」とされているが、賛成できない。 ...続きを見る

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2011/12/14 09:12
桐野作人著『織田信長』(5)
p551.に<稲葉家を出た利光と直治の二人に対して…処分に軽重が生じたの…は利光が直治を誘い、光秀に仕えさせたからだろう。信長は利光の行為が織田家中の家臣団統制に抵触したと判断したのである。…「法に背く」とか「筋目として」とあるのがそれで、利三に厳罰を下そうとしたのである。>とある。 ...続きを見る

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2011/12/13 09:21
桐野作人著『織田信長』(4)
p555.「この(六月一)日、信長は…安土から大量の茶道具の名物を持ちこんで公家衆に披露した。また『晴豊公記』によると、公家衆との雑談では、武田攻めの物語をするとともに、西国へは四日に出陣するつもりでおり、いくさは大した手間はかからないだろうと見通しを述べている。」とあるが、これは問題がある。 ...続きを見る

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2011/12/13 07:28
冤罪(とんでも説)の作られ方
犯罪を推理する場合に冤罪を生む機序、学問では“とんでも説”に陥る原因は、比較的簡単である。 ...続きを見る

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2011/12/12 08:41
信長の閏十二月問題(3)
桐野作人氏が『真説本能寺』で、『言経卿記』に記載のないところから、京暦では日食を予測できなかったと推定したのは問題があるのではないのか。国立公文書館の『天正十年具注暦』(194-495)には、六月一日の日食が予測されているからである。 ...続きを見る

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2011/12/10 18:15
本能寺の変(4)
稲葉家での利三はかなり冷遇され不当な扱いを受けたらしく、良通のもとを三度離れ三度呼び戻されたと伝えられる。 利三が一鉄と喧嘩別れし、縁者の光秀に仕えたのは、光秀が坂も城主になって将士を欲しがっていた元亀二年ころらしく思える。 ...続きを見る

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2011/12/10 12:45
本能寺の変(3)
現在怨恨説の内に分類されて軽視されている問題に斉藤光利問題がある。これも『稲葉家譜』所収文書しかないため、信頼できる史料に欠けており、論証は難しいのだが、視点を変えれば重大で鮮な政治問題の対立が信長と光秀の間にあったことが知れるのである。 ...続きを見る

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2011/12/10 12:36
本能寺の変(2)
『検証本能寺の変』の谷口克弘氏によると、「新史料でも発見されない限り、もう新しい説は出しようがない。これほどいろいろな説がある以上は、必ず真相がその中に含まれているはずである。」といわれる。 ...続きを見る

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2011/12/10 12:31
高澤等著『新・信長公記』(13)
高澤氏のいう信長が、「今川軍の攻撃開始時を選択した」目的が、中島砦表での今川義元勢との決戦であるというのは世紀の愚論であろう。 ...続きを見る

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2011/12/08 12:18
高澤等著『新・信長公記』(12)
p45に「(『三河物語』の記述にからすれば、)今川軍主力(先鋒)は大高城に合流する前に大高川を渡らない形で丸根砦を攻め、義元自身が率いた軍勢(義元本軍)も大高城近辺にはいなかったのである。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/08 09:25
高澤等著『新・信長公記』(11)
p57.に、「ただでさえ今川軍にとっての大きな目的は大高城への兵糧入れであり、物資運搬の人足は多く必要であったであろう。当然純粋な戦闘員の割合では織田軍の兵員構成と比べれば大きく劣っていたはずである。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/05 18:26
高澤等著『新・信長公記』(10)
p36.「出兵の主目的の一つである大高城への兵糧入れは、できるだけリスクの少ない手順が採られ、丸根・鷲津砦からの脅威が省かれた後と考えるべきだろう。…攻撃開始前であるはずがない>。…『三河物語』では丸根・鷲津砦陥落後に兵糧入れがあったことが明記されている。」とある。 ...続きを見る

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2011/12/05 13:58
姉川合戦
太田浩司氏の『浅井長政と姉川合戦』にいう奇襲説は、信長の事前の予測を裏切り、その主力を山城攻略に切り替えさせたという意味においては、思惑通りにいったのであり、奇襲に成功したと言えるだろう。 ...続きを見る

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2011/12/05 07:41
桐野作人著『織田信長』(3)
p379に「十八日に鉄砲で押し詰めたというのは、長篠城包囲の為に滝沢川右岸(西岸)にいた武田軍を、織田方の先手衆である滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らが(織田・徳川連合軍の様子を窺い知られないように)追い払ったという意味ではないだろうか。そうであれば、武田方の長篠城包囲網の一角が崩れたことになる。」と書かれている。 ...続きを見る

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2011/12/01 16:16
桐野作人著『織田信長』(2)
桐野作人氏は、p120で、『甫庵信長記』には「義元が先陣の勢、山際に引へたるに、面も振らず懸入りて」とある。…山際まで引いたところを、両将(佐々・千秋)が攻め込んで行き、討ち死にしたのだろう。と言われる。 ...続きを見る

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2011/11/29 15:35
桐野作人著『織田信長』(1)
p120に、『創業録』には、佐々・千秋が押し行ったのは、「本道〈今ノ道ニアラス、海端ナリ〉」とある。…山際の位置が鷲津砦の方向にあった可能性を指摘しておきたい。…(p123:佐々・千秋が向かったのが鷲津砦の方向であったなら、)信長はその方面の今川勢を先手だと認識していたことになり、無視できない。…信長の中島砦からの進出方向とも関わっている。 ...続きを見る

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2011/11/27 09:37
高澤等著『新・信長公記』(9)
p47.「義元が休息のために陣を張った桶狭間山から…義元自身が率いる軍勢はさらに(原東海道を)中島砦に向けて迫り、軍勢を(漆山)山腹に段々に備えたのである。」とある。 ...続きを見る

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2011/11/22 10:14
高澤等著『新・信長公記』(3―2)
信長が茶会を催す予定があったことを暗示する事象には、 @『御茶湯道具目録/仙茶集』があって、本能寺に茶器が持ち込まれた可能性があること。 A『御茶湯道具目録』の日付が「午(うま)の六月一日」であり、宛名が「宗叱(ソウシツ)まいる」と書かれていること B『日々記』が六月四日出陣予定と記すこと。 C信長が、「御いつそう」の後出陣すると公言しているが、一掃がなされていないこと。(一掃後の茶会の可能性) D信長の征西は九州を視野に入れていたこと。 E六月二日、家康は御礼言上と見送りに、筒井順... ...続きを見る

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2011/11/21 12:44
高澤等著『新・信長公記』(8)
金ヶ崎撤退戦について高澤等氏が、金ヶ崎撤退戦で織田軍の損害が皆無と言うぐらい少ないことと、信長は撤退中に浅井氏の挙兵を知ったとする事を指摘することには一理ある。 ...続きを見る

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2011/11/19 08:05
高澤等著『新・信長公記』(7)
p43に「すでに、今川軍は中島砦に肉薄しており、さらに中島砦に寄せられてしまえば、信長軍は(田中の一本道という難所があるため)善照寺砦より先には進出できなくなってしまうのである。」 とある。 ...続きを見る

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2011/11/18 16:11
高澤等著『新・信長公記』(6)
p42.「戦国時代の民衆の逞しさを感じさせるこの(天理本にいう熱田・山崎の町人)民衆達は善照寺付近で【信長によって追い返されてしまった】ため、信長軍はさらにさびしく見えたという。」とある。 ...続きを見る

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2011/11/18 15:49
高澤等著『新・信長公記』(5)
p44・「三河物語には今川義元は十九日に知立を立ったと記しながら、十八日の夜には戦闘が始まりそうな丸根砦を「ツクヅクト巡見」した後に長い評定の末に攻撃命令を下すなど矛盾もみられるが、三河物語の方が『信長公記』よりも信用が置けそうである。」と言われる。 ...続きを見る

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2011/11/18 09:32
高澤等著『新・信長公記』(4)
p202.著者は言われる。 ...続きを見る

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2011/11/18 09:19
高澤等著『新・信長公記』(3―1)
『新・信長公記は、「p316.光秀は六月一日になって翌日(二日)に茶会が開かれる事を知り、…(信長・信忠が)他所に移動することがないことを確認したうえで翌朝に信長を襲う事を決したと考えられる。」とされ、“信長は本能寺で変のあった六月二日以降に茶会を開こうと予定していた。”という田中秀隆氏の論文(2004)を根拠とされる。 ...続きを見る

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2011/11/16 10:43
高澤等著『新・信長公記』(2)
p67によると、 織田と浅井の婚儀を必要としたのは信長でもなければ長政でもなく、足利義昭であった。とある。 ...続きを見る

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2011/11/14 15:28
高澤等著『新・信長公記』(1)
なかなか面白い着眼点を持っているが、史料の誤読が多すぎるうえ、展開が荒唐無稽になるのが残念である。 ...続きを見る

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2011/11/14 15:18
信長の閏十二月問題(2)
信長が、閏十二月にこだわったのは、暦法上でもそれなりの理由がある。 ...続きを見る

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2011/11/14 09:21
斎藤利三
推理小説的に見れば、斉藤利三が犯人である可能性は、動機が戦国人としては薄弱な点を除けば限りなく高い。利三の自白が無いことが唯一のネックとなっている。 ...続きを見る

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2011/11/11 08:24
土岐一族と光秀謀反
光秀の出自について語るフロイスの『日本史』やイエズス会の年報では信長の家臣となる前は、細川藤孝に奉仕していたとされ、『多聞院日記』は「光秀は細川兵部太夫の中間だったのを信長に引き立てられた」と書かいている。しかし、それ以前については何も記されていない。 勿論、これらの史料には土岐氏の「と」の字も見ることはできないのだ。 また、『立入左京亮入道隆佐記』が、「美濃國住人ときの隨分衆也」と書くのが光秀や土岐氏に関する、当時の文化人の最高の知識内容なのである。これとて、その意は、「土岐一族の“流れ=... ...続きを見る

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2011/11/08 13:28
信長の閏十二月問題(1)
通説では、信長がこの問題を持ち出したのは、天皇の大権である暦作成にまで介入したとされ、信長による帝位簒奪の証拠であるとされている。 また、好意的な解釈でも、天皇の大権である暦に疑義が生じることは、天皇の権威に傷がつくから、その原因を突き止めて、天皇の権威に瑕疵をつくらないようにしたのだとする。 ...続きを見る

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2011/11/06 14:38
愛宕百韻(その3)
但し、“下なる”と言う句は和歌としては、全くの駄作であると思う。 これの何処が駄作化と言えば、“アメ”には雨の意味しか当て嵌められない。とても“天”や“空”には読めない。雨と読まなければ五月だと解らないからだ。 ところが、これが“下知る”の場合は、“アメ”は“天”や“空”と大きな情景になるだけでなく、天候が雨だろうと晴れだろうと構わなくなる。 だから、まず、“あめ”は“天”であって、間違っても“雨”などという裏の意味はないだろうと思うのだ。それは、五月雨であろうが五月晴であろうが、作者が五... ...続きを見る

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2011/11/01 11:51
愛宕百韻(その2)
ところで、光秀の発句の解釈だが、金子拓氏によれば、「下なる」の句が原句であるとするならば、愛宕神社に雨が降っているという情景と、中国攻めが済めば、信長の天下は揺ぎ無いものになるだろうという見通しが重層的に詠み込まれた、まさに戦勝祈願の発句になるのだという。 ...続きを見る

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2011/11/01 11:44
愛宕百韻(その1)
愛宕百韻が光秀謀反の心情を反映していたとするならば、同座した連衆が秀吉によって訴追されない等という矛盾が生じる。信長に通報しなかった罪だ。 ...続きを見る

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2011/11/01 11:28
本能寺の変
本能寺の変は、光秀の謀叛の理由を追求することから始めると、捗々しい結果は得られないことは、高柳光壽の遺恨説以来百花繚乱の様を呈していることからで明らかである。 遺恨説の根拠にされる行事 そのものは実際にあったことであるが、そこで光秀に遺恨を持たせるような事件が起きたかどうかは定かではないし、あったとしてもそれによって光秀が本当に遺恨を持ったかどうかまでは証明できない。 また、これらを十把一絡げで退ける事実がある。それは、光秀が本能寺に信長を討つことには成功したが、戦略的には実にお粗末であり、... ...続きを見る

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2011/09/17 13:23
セリアヰ (その2)
昔は、 永原慶二が『戦国の動乱/日本の歴史8』(1991.12)で、「(五ヶ条の条書を)一言でいえば、天下の事は万事信長に任せられたのだから、義昭は何一つ勝手な行動をしてはならないと言う事になる。此の事からすれば、先に信長が義昭と衝突して下国した背景には、おそらく義昭が、浅井・朝倉・武田、もしくは本願寺などに、信長への敵対計画を進める連絡を獲った事実があったのではなかろうか。」とするような、義昭の陰謀説が主流であったようだ。 ...続きを見る

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2011/09/11 10:12
正親町天皇
信長は、永禄十二年(1569)一月に九箇条の殿中御掟を義昭に承認させている。 ...続きを見る

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2011/09/10 07:50
セリアヰ(その1)
信長と義昭が「セリアヰ」に至った理由は定かではない。 ...続きを見る

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2011/09/09 09:02
元亀改元
ウィキペデュアによると、 「義昭は自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した。 しかし信長はそれが (イ)将軍権威の復活につながること、 (ロ)正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと、 (ハ)反対した。 しかし義昭は信長が朝倉氏討伐に出陣した四月廿三日、改元を実行している。」 ...続きを見る

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2011/09/08 08:41
上洛戦を見直す(5)
観音寺城の戦いについて『信長公記』は、 ...続きを見る

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2011/09/06 07:39
上洛戦を見直す(4)
永禄十一年九月十二日、『信長公記』によれば、信長は再び近江に出張し、守護六角氏の前線・和田山城や承禎の籠る観音寺城の正面攻撃を避け、箕作城を直接攻略した。 激戦の末に箕作城が落ちると、承禎父子は観音寺城を捨てて近江甲賀に逃走している。 ...続きを見る

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2011/09/05 07:12
上洛戦を見直す(3)
後詰に行ったはずの石成は、なぜ観音寺城・箕作城・和田山城の何れかに兵を入れずに、京まで帰ってしまったのだろうか。 ...続きを見る

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2011/09/04 08:30
上洛戦を見直す(2)
永禄十一年九月七日、『信長公記』によると、信長は岐阜を出陣するのだが、これに先立って、元来が甲賀の豪族である和田惟政は、近江甲賀に遣わされて甲賀諸侍の信長への忠節を促している 。 これは、旧領安堵ということだろうから、かつて奉公衆であった者は義昭の幕府軍に、近江国守護に属していた者は六角宗家か、または織田家被官に抱えるということになるのだろう。 ...続きを見る

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2011/09/03 08:31
上洛戦を見直す(1)
佐々木哲の研究をみると、主にHP『佐々木哲学校』によるのだが、従来の信長による上洛戦に対する思い込みに反省を迫るものがある。 ...続きを見る

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2011/09/02 17:50
”本郷和人の日本史ナナメ読み”を真直ぐに読む
本郷和人氏は藤本正行の桶狭間合戦奇襲否定説が正しい場合には、兵力差に問題があるとし、そこで義元の兵力ではなく、信長の兵力を採り上げて、おそらく一万を超える兵は用意していただろうと想定する。 普通は、非常識に大兵力の今川方の兵力を疑うのだが、これは通説の二万五千を受容している。 さらに、桶狭間合戦場における両軍の兵力差は相当に縮まっていたはずであり、それは義元側が兵力を分散していたのに対して、信長側は決戦を意図していたために兵力を集中していたからだとされる。 これも、偏った見方であり、賛成で... ...続きを見る

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2011/08/10 08:19
光秀の京屋敷(2)
今回はお遊びである。 ...続きを見る

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2011/08/07 17:29
光秀の京屋敷(1)
本國寺以前のことはみな後世の作り話だとすると、やはり光秀の財力に関する疑問は、信長から近江(滋賀県)志賀郡を与えられる元亀二年(1571)以前の事象にあることになる。 その最たるものが、高柳光壽が無批判に採り上げた京の光秀邸ということになろう。 ...続きを見る

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2011/08/03 15:06
光秀軍法
前回疑問を呈した明智軍法の解釈について、原文に当って検証してみようと思う。 ...続きを見る

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2011/08/02 08:19
五段撃ち
面白い質問に出会った。 ...続きを見る

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2011/08/01 16:10
光秀の五百余の私兵
二番目に矢切止夫が採り上げるのは、実際に信長と光秀が初めて正式に逢ったのは永禄十一年七月廿七日であるとする『細川家記』である。 そこでは、明智光秀が仏ヶ原で五百余の私兵を率いて義昭一行を待っていて美濃・立政寺へお連れし、信長と対面させたとあることを紹介する。 ...続きを見る

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2011/08/01 11:39
坂本城と光秀の財力
高柳光壽が『明智光秀』で「元亀元年二月三十日、信長が岐阜から上京したとき、信長は光秀のところに宿している。光秀はこのころ早くも京都に屋敷を持っていたらしい。」と書いてから、光秀が領地も不詳、豪商でもないが、一流の文化人でありながら、低い身分であったという矛盾が生じたのだが、学界からはこの問題は無視され続けてきた。 ...続きを見る

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2011/07/31 14:57
「牛」 「坑道戦」
桐野作人氏の中日文化センター講議に行ってきた人に話を聞いたが、二つばかり間違いがあったので正しておいた。 ...続きを見る

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2011/07/29 08:52
蘭奢待
28日に中日文化センターでの桐野作人氏の講習会を受けたひとの話だと、蘭奢待切り取りに関する『大日本史料10-21』の註は間違っているらしい。 ...続きを見る

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2011/04/29 08:22
信長革命を読む(1)
同書は、「p20.尾張時代の信長の軍隊の特徴は、鉄炮隊というよりも優秀な長鑓隊だった。・・・尾張時代の信長は、三間半もの長鑓を組織的に使用できる部隊を編成していた。これこそが、彼の軍隊の強さの秘密だった。」と断定される。しかし、同書にはそれを証明する記述はない。あるのは想像だけだ。 ...続きを見る

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2011/03/11 13:25
斎藤右京大夫龍興
『美濃明細記』に「龍興室者浅井備前守長政女也、属長政後、属朝倉義景有軍功、」という記事がある。 ...続きを見る

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2011/03/06 09:04
藤田達生氏の桶狭間合戦(2)
『信長革命』では、今川義元の目的は大高城と鳴海城の救出であったとされる。 ...続きを見る

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2011/01/26 08:54
藤田達生氏の桶狭間合戦
『信長革命』を読んでいる。 ...続きを見る

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2011/01/25 08:56
三方ヶ原合戦を説明する仮説(3)
通説の信長と家康の計画では、浜松城に籠って信玄を拘束して、信長の後詰を待つというものであったが、信玄はその裏を掻いて浜松城を素通りしたので、家康は慌ててこれを追尾したところを、返り討ちされたというものである。 そして、信玄が嵩にかかって浜松城を囲まなかったのは[上洛を目的]としていて先を急いでいたからだというものである。 ...続きを見る

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2010/12/29 06:54
三方ヶ原合戦を説明する仮説(2)
反信長勢力に引き摺り込まれたにしろ、信玄はなぜ危険な橋を渡ろうとしたのだろうか。 一般には、信玄・謙信は天才的戦術家で、信長は彼らを恐れていたということになっているが、彼等は最大でも三万しか集められないのである。 それが三方ヶ原であった。 その時の信長は、近江にも大阪にも手をとられていたが、優先順位の高い所に軍勢を配置している。 そして、浜松は最も優先順位が低く、徳川家康の八千に対して佐久間信盛ら三千を派遣できた。通説では三千しか救援に差し向けなかったという評価であるが、実際は家康軍と合... ...続きを見る

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2010/12/28 09:14
三方ヶ原合戦を説明する仮説(1)
三方ヶ原合戦においての信玄が、 @二俣城攻略に二ヶ月もの時間をかけ、 A浜松城を素通りし、 B三方ヶ原合戦で家康にとどめを射さずに、浜松城を攻囲もせず、 C武田水軍を創設し、田原辺りに放火したばかりで、海岸沿いの要衝に出ずに、山際をノロノロと進軍し、 D岐阜から僅かに60km強であり二日の行程でしかない岩村城をも攻略しながら、岐阜へ突入させていない。 という五つの不思議を解明するためには、次のような仮説が必要である。 ...続きを見る

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2010/12/27 08:52
三方ヶ原合戦には謎が多い(5)
信玄の目的が、幾許か(北遠と奥三河)の領土割譲を求めての遠江侵攻であったならば、信玄が二俣辺りで二ヶ月もグズグズしていたり、浜松城を迂回して家康との交戦を避けたり、戦闘に至っても家康を討ち滅ぼすようなことをしていないことにも合点がいくし、それ以後も田原辺りに武田海賊が放火したと伝わるにも拘らず、信玄とその大軍は依然として山麓を進軍している理由も説明できる。 ...続きを見る

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2010/12/26 17:31
三方ヶ原合戦には謎が多い(4)
最大限に信玄に好意的に評価すると、 信玄は日露戦争や大東亜戦争での日本と同じ立場にいて、明治政府と同じことを意図しながら失敗して、昭和政府と同じ過ちを犯したということができるだろうか。 ...続きを見る

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2010/12/23 07:52
三方ヶ原合戦には謎が多い(3)
鴨川達夫説を踏まえた『山梨県史通史編2』は、 ...続きを見る

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2010/12/22 07:47
三方ヶ原合戦には謎が多い(2)
第二の謎は、信玄は元亀の信長包囲網に参加することで何を得ようとしたのだろうかという疑問である。 ...続きを見る

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2010/12/21 07:25
長篠の戦い(9)
戦国時代の史料は何もないから、江戸期の資料から推理するしかない。 現在の地形は大幅に改変しているから、その印象では戦場について語ることは危険である。 地形図に表現されていない詳細は、長篠合戦に関心が向いてからの、記録や証言に頼るところが多くなろう。 ...続きを見る

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2010/11/01 19:36
長篠の戦い(4)
蓮吾川の河岸段丘を「あるみ原」と誤認し始めたのは、戦国時代戦史のあらゆる誤謬の犯人である『甫庵信長記』でも『甲陽軍鑑』でも参謀本部『日本戦史』でもない。 ...続きを見る

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2010/10/19 14:51
桶狭間合戦と甲冑
先日土曜日、桶狭間公民館で開催された信長と義元の銅像建立記念講演会を傾聴してきた。 ...続きを見る

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2010/09/27 08:10
明智十兵衛光秀
『永禄六年諸役人附/群書類従・第二十九』にある足軽衆の中に『明智』という姓があることから静岡大学教授・小和田哲男氏は、明智十兵衛光秀は室町幕府の役人として十三代将軍足利義輝に仕えていたとしたが、この明智を光秀であるとするには十分な根拠がないのが現状である。 ...続きを見る

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2010/06/26 09:14
墨俣一夜城(2)
武功夜話は文芸作品であることを前提としてではあるが、その種になった記録にどこまで迫れるかというのが、この本を読む醍醐味である。 ...続きを見る

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2010/02/19 14:41
武功夜話異聞(1-1)
2009/06/01に武功夜話異聞(1)で村公氏の『武功夜話異聞』にある「富加」の地名問題について、「大納得」と書いたが、どうもそうはいかないらしい。 ...続きを見る

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2010/02/15 08:15
萱津合戦
『大治町史』と『七宝町史』を読み比べて『信長公記』の萱津合戦を検証してみた。 ...続きを見る

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2009/10/25 08:12
西加藤家への織田信長判物
歴探さんのブログはいつも注目している。 ...続きを見る

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2009/09/22 09:26
武功夜話異聞(3)小牧山城引越
前回まで、藤本正行氏が「森辺合戦・十四条合戦・北軽海合戦は永禄四年五月中に連続して起きた一連の事件だ」と云われ、勝村公氏が「永禄四年は森辺合戦、永禄五年が十四条・北軽海合戦である」とされたことを紹介し、確かに藤本氏の論拠だけでは、全てが永禄四年五月中に起きたとは断定できないことを示した。 ...続きを見る

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2009/06/03 21:26
手取川の戦いの裏側
穿った見方をすればだが……… ...続きを見る

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2009/02/24 12:13
手取川の戦い
手取川の戦いはおそらく後世につくられた話にすぎないであろうが、上杉方がそのように認識するような出来事があったのかも知れない。 有り得る事件としては、織田勢が引揚げきれていないうちに、上杉勢が間に合って手取(湊)川に到着出来て、織田の殿軍にいくばくかの損害をあたえることができた場合がある。 そうでなくも、謙信が手取川に到着した時に織田軍が撤退した後であったならば、謙信を恐れて逃げ出したものと受け取っても不思議はない。 ...続きを見る

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2009/02/23 16:50
太源崇孚(スウフ)雪斎
「義元にとっては右腕であり、何よりも幼児から自分を傳育してくれた親代わりのような存在でもあった雪斎の死は、義元に大きな衝撃を与えたに違いないが、そのショックを乗り越えて義元は新しいアクションを起こすことを決意した。西方形略の足場固めのため、自ら三河支配の強化に乗り出すことにしたのだ。」という見方もある。 ...続きを見る

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2008/10/08 09:56
大脇村の曹源寺と桶狭間村の長福寺
前に、曹源寺と梶野党について、よく分からないと書いた。その後、調べてみて分かったことを書く。 ...続きを見る

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2008/10/06 06:05
信長軍の速度
『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのである。p173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行... ...続きを見る

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2008/10/03 07:36
石川六左衛門尉の批判
「(藤本正行氏は、)鷲津・丸根など織田側拠点の攻略と織田軍主力の捕捉撃破という二つの目標を持っていた今川軍は、信長の強襲に対応できずに敗れたという。…迂回奇襲などしようとすれば義元の本陣を見失う…栗田艦隊と桶狭間の戦いでの織田信長を一概には一緒にできないだろう。」p182  とは、橋場日月氏の『新説・桶狭間合戦』 ...続きを見る

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2008/10/01 09:29
鳴海・桶狭間の鍛冶集団・梶野党
『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「鳴海・桶狭間の梶野党は多く鍛冶集団だったらしい。…曹源寺(大脇村)は梶野党の寺であり、この一帯に鉄砲も扱える鍛治集団梶野党が集住していた事も小平太らに有利に働いたかもしれない。」と自説を展開される。 ...続きを見る

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2008/09/25 07:38
尾張への陸路進撃は非現実的か?
橋場日月氏の『新説・桶狭間合戦』は、「仮に陸路を鳴海から清洲城に向けて軍を進めると、…星崎などの第一防衛拠点軍が邪魔をし、それを突破すれば佐久間一族が本拠を置く御器所の城が第二防衛ラインとして立ちふさがる。…信長の根城だった那古野城が第三防衛拠点として立ちはだかる。…義元が短兵急に陸路を進撃して尾張を占領しようとする企図するには無理があった。…義元の目は伊勢湾に向けられており、その作戦は海上封鎖による織田支配権の圧迫が目的だったと判断してよい。」と主張されます。 ...続きを見る

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2008/09/24 08:02
熱田・山崎の町人は何を見たか?
橋場日月氏の『新説・桶狭間合戦』は書きます。 「おそらく佐々・千秋隊の壊滅を眺めて(中略)信長が中島砦に降りて行くのに対して彼ら(熱田・山崎から付いてきた)観衆はさっさと帰り始めた。手薄になった、というのは今川軍から見た場合に織田軍と管周の区別など付かず、織田軍から戦場を離脱する兵たちが出たように映ったことを表していると思われる。」 ...続きを見る

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2008/09/22 08:09
季節風と義元の戦略
橋場日月氏の『新説・桶狭間合戦』の重要な主張に、 義元が船舶で伊勢湾を横断または尾張を攻撃しようとして、東南の季節風が卓越する夏季に作戦を企図し、服部左京亮の輸送船団を呼び寄せたというものがあります。 ...続きを見る

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2008/09/19 09:06
天王坊
橋場日月氏の『新説・桶狭間合戦』を一気に読み終えました。 ...続きを見る

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2008/09/16 16:25
歴史読本3月号、軍事カリスマの原点
昨日、歴史読本4?月号、連載第4回「軍事カリスマの原点」を立ち読みしてきました。 ...続きを見る

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2008/03/01 10:23
信長方は優勢であったか?
今川方は沓掛・大高城を押さえて着実に西進していることから信長優勢というのは疑問と指摘を受けたことについての、小生の考えです。 ...続きを見る

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2008/02/20 20:09
稲生の戦い
泰巖宗安記さんのブログに、桐野作人氏の『軍事カリスマの原点連載三/歴史読本』について「稲生原の戦いの発端を道三の死がきっかけとされた方は、今までいらっしゃたろうか」とありました。 ...続きを見る

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2008/02/08 11:34
馬借
永禄十二年(1569)正月、上洛を果たして岐阜帰った信長の下へ、三好三人衆らが公方様御座所の六条本圀寺に攻めよせたという飛脚が参着します。 ...続きを見る

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2008/01/31 16:30
伊勢神宮への手紙
がんちゃん・さん からのご指摘で原文・書き下しおよび訳の誤りを鋭意訂正中です。(2008.2.15)・・・と云うことで、この記事を読まれる方は、コメントまで読んで下さる必要がありますので、ご注意ください。 ...続きを見る

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2008/01/24 08:19
今川義元の祈願文
今川義元が伊勢神宮に祈願した書状があります。何時ものように、原文は歴探さん<http://rek.jp/index.php?UID=1191942622>から拝借してきています。 ...続きを見る

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2008/01/13 15:03
沓懸の到下
『信長公記』には、 ...続きを見る

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2008/01/10 09:59
水野十郎左衛門尉への手紙
これから話題にする書状の最大の問題は、その書かれた「年」です。『豊明市史』などでは「永禄三年歟」とされているようですが、これについては、去年十一月廿七日付けの「水野十郎左衛門尉」で永禄二年のことであろうと小生は結論しましたが、ここまでの六通の書状を見た現在でもそれに変わりはありません。 ...続きを見る

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2008/01/07 15:06
今川義元の手紙
さて、この文書は一般には「山口左馬助が今川方のために働いてくれた」と過去形に考えて、義元は左馬助のしてくれた事に謝意を表明しているように考えるようです。しかし、「可」という文字には過去形はありません。それは推量であれ確信であれ決意の意味であれ現在形の詞なのです。ですから、義元が喜んだのは左馬助が仲介の労を取ることになったことに、安堵と期待を示したことになると思うわけです。 ...続きを見る

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2008/01/05 13:13
鵜殿長持の手紙
この書状は難解です。小生の手に余るものですが、現在まで解読し得たと考えるところまでご披露したいと思います。 ...続きを見る

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2008/01/04 08:26
織田信秀の手紙
水野十郎左衛門のもとへ手紙を送っているのは斎藤道三だけではありません。織田信秀も送っています。・・・・・・と、言うよりも、十郎左衛門の方から気を使って手紙を出したことへの返事なのですが・・・・。 ...続きを見る

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2007/12/31 08:31
長井久兵衛の手紙
道三が安心軒と瓦礫軒に託して水野十郎左衛門に手紙を送ってから二日後、今度は長井久兵衛秀元が手紙を送っています。道三が家臣に命じて再度の便りを今度は、水野十郎左衛門本人に宛て直接送っているわけですが、これは二度も同じ内容の手紙を出すこと、つまり催促しなければならないことは、沽券に係わることですから避けたわけです。そして、重複している場合を考えて、更に詳しく事情を説明しています。 ...続きを見る

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2007/12/30 08:09
斎藤道三の手紙
ここに、斎藤道三の極めて興味深い手紙があります。 ...続きを見る

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2007/12/29 08:34
刈谷城の謎
先日、歴探さんのHP<http://rek.jp/index.php?UID=1197909702>を訪問しました。そこでは、刈谷城が今川方になった時期を考察しておられました。そこで紹介されていた数々の史料はとても興味深いものです。小生、その見解について色々質問させていただいたのですが、その結果として考え至ったことを書こうと思います。 史料の原文は歴探さんのHPからコピーさせてもらいます。 ...続きを見る

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2007/12/22 10:23
織田家の寄親寄子制(その2−2)
さて、家督相続から桶狭間の戦いまでの『信長公記』の記事を見るのですが、 その前に今川仮名目録追加第二・三条で、桶狭間の戦い当時の今川家の寄親寄子制を窺ってみます。 ...続きを見る

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2007/12/21 08:34
今川仮名目録追加第三条
今川仮名目録追加第三条の一般的な解釈は、 ...続きを見る

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2007/12/18 08:09
織田家の寄親寄子制(その2−1)
さて、ここからは信長の時代に入ります。 ...続きを見る

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2007/12/16 16:59
織田家の寄親寄子制(その1)
織田家の軍制を寄親寄子制がどのように行われたかという観点から、『信長公記』を読んで考えてみます。 ...続きを見る

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2007/12/14 16:26
万松寺で織田信秀の葬儀が行われたか
万秀寺(萬松寺が正しい)での信秀の葬儀において、相当に振舞った弟・信行に対し、不作法な姿で現れて抹香を仏前に投げつけて帰っていった信長の姿が『信長公記』に書かれています。 ...続きを見る

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2007/12/12 10:46
信長の御狂い
泰巖宗安記さんに紹介された『桶狭間の真実』は、小生の近所の本屋にはありませんでした。郊外の大型店舗を二軒も回ったのですが・・・田舎ですね。 ...続きを見る

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2007/12/03 09:57
水野十郎左衛門尉
愛知県史資料編の四頁には、今川義元が水野十郎左衛門尉なる人物に宛た次のような書状があります。 ...続きを見る

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2007/11/27 14:34
安土城と穴太衆(その2)
中井均氏の『近江の城郭』はみつかりませんでしたので、田淵実夫氏の『石垣/ものと人間の文化史』を読みます。 ...続きを見る

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2007/11/21 16:47
安土築城と穴太衆
安土築城と穴太衆について考える ...続きを見る

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2007/11/20 15:10
信長のプレハブ工法(その2)
前回の記事で「専門集団」と表現したは、現代の工兵隊などのような特化部隊の意味でして、専門技術者が二三十人もまとまった集団などでは存在しなかったろうというのが趣意です。 ...続きを見る

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2007/11/19 15:12
信長のプレハブ工法
「 佐和山おさへの諸執出之道具共、両人方へ可預置候。 小谷表之普請之用ニすべく候。 五郎左衛門かたへ申シ遣シ候条、両人打越間、とりあつめ可置候。 ちり候ハぬ様ニ可被申付候。 謹言。二月廿五日 信長(花押)。 樋口三郎兵衛殿。藤吉郎殿。 」 ...続きを見る

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2007/11/18 16:29
今川仮名目録第一条、通説の誤り(その2)
<今川仮名目録の第一条は、どのように理解すべきか> ...続きを見る

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2007/11/17 07:38
今川仮名目録第一条、通説の誤り(その1)
今川仮名目録の第一条は、名田の没収の禁止と年貢増を条件とする名田の競望を許すことを定めています。 ...続きを見る

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2007/11/16 19:54
平手正秀の死
「 一、平手中務丞が子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて、兄弟三人これあり。総領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持候。 三郎信長公御所望候ところ、憎ぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免候へと申し候て、進上申さず候。 信長公御遺恨浅からず、度々おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。 三郎信長公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。 一、さる程に、平手中務丞ハ、上総介信長公実日に御座なき様体をくやみ、守り立て験なく候へば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り、相果て候。 」(... ...続きを見る

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2007/11/14 17:54
景清あざ丸刀の事(その2)
前回、「 牛屋の寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、さんさんの悪き弓にて、木ぼうをもって、城中より虚空に人数備への中へくり懸け候へば、陰山掃部助左のまなこに当たる。 」という段において、「木ぼう」については曖昧にしましたが、『古事類苑』に解説がありました。 ...続きを見る

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2007/11/12 11:06
深田松葉両城手かはりの事(その3)
「 一、松葉口廿町計りに取リ出惣構へを相拘追いれられ、真島の大門崎つまりに相支へ、辰の刻より午の刻まで取合ひ、数刻の矢軍に手負数多出来、無人になり、引き退く所にて、赤林孫七・土蔵弥介・足立清六うたせ、本城へ取り入るなり。 一、深田口の事、卅町計りふみ出し、三本木の町を相拘へられ候。要害これない所言えないに候の間、即時に追ひ崩され、伊藤三郎・小坂井久蔵を初めとして、究竟の侍三十余人討死。 これによって、深田の城、松葉の城、両城へ御人数寄せられ候。 降参申し、相渡し、清須へ一手につぼみ候上総介... ...続きを見る

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2007/11/08 09:33
深田松葉両城手かはりの事(その2)
「 一、織田上総介信長、御年十九の暮八月、此の由をきかせられ、八月十六日払暁に那古野を御立ちなされ、稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口・三本木口・清須口三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介、孫三郎殿一手になり、海津口へ御かかり候。一、清洲より三十町計り踏み出し、海津と申す村へ移り候。信長八月十六日辰の刻、東へ向ってかかり合ひ、数刻、火花をちらし相戦ふ。 孫三郎殿手前、小姓立の赤瀬清六とて、数度武篇いたすおぼえの仁体、先を争ひ坂井甚助に渡り合ひ、... ...続きを見る

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2007/11/06 06:17
深田松葉両城手かはりの事
手かはり・・・裏切り ...続きを見る

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2007/11/02 09:20
備後守殿病死の事(その2)
(2007.12.13 一部改訂) 「 一、備後守殿疫癘御悩みなされ、様々御祈祷、御療養候と雖も、御平癒なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。 生死無常の世の習い、悲しきかな。颯々たる風来なりては、万草の露を散らし、漫々たる雲色は満月の光を隠す、さて、一院建立万松寺と号す。 当寺の東堂桃厳と名付けて、銭施行をひかせられ、国中の僧衆集まりて、生便敷御弔いなり。折節・関東上下会下僧達余多これあり、僧衆三百人ばかりこれあり。 三郎信長公、林、平手、青山、内藤、家老の衆、御伴なり。 ... ...続きを見る

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2007/10/31 07:25
備後守殿病死の事
(2007.12.13 一部改訂) ...続きを見る

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2007/10/30 07:50
小豆坂の戦い(その5)
現在のところ『新編岡崎市史・中世2』が最も精緻な考証をしているものと小生は考えます。 ...続きを見る

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2007/10/28 11:31
上総介殿形儀の事
『信長公記』では天文十七年の第二次小豆坂合戦の後に入っているが、『美濃国諸旧記』は「二月廿五日、帰蝶入輿す」とするのでここに置く。 ...続きを見る

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2007/10/26 08:11
犬山謀叛企てらるゝの事
「 一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。 」 ...続きを見る

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2007/10/24 06:29
吉法師殿御元服の事
「 吉法師殿歳十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介ガ御伴添申し、古渡の御城にて御元服、欝三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜めならず。 」 ...続きを見る

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2007/10/23 06:26
清洲衆と鉾楯に及ぶ事
加納口の戦いは、『亨禄以来年代記』や『信長公記』では、天文十六年になっていますが、ここでは 天文十三年(1544)のこととしておきます。 ...続きを見る

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2007/10/21 17:42
景清あざ丸刀の事
「 爰に希異の事あり。去る九月廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれなり。この刀、陰山下掃部助ガ求めさし候て、西美濃大柿の並び、牛屋の寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、さんさんの悪き弓にて、木ぼうをもって、城中より虚空に人数備への中へくり懸け候へば、陰山掃部助左のまなこに当たる。 」 ...続きを見る

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2007/10/20 09:01
大柿(垣)の城へ後巻の事
「 霜月上旬、大柿の城ニ近々と取り寄せ、斉藤山城攻め寄するの由、注進切々なり。其の儀においては、打ち立つべきの由にて、霜月十七日、織田備後守殿後巻として、又、憑み勢をさせられ、木曽川・飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入、竹が鼻ニ放火候て、あかなべ口へ御働き候て、所々に烟を揚げられ候間、道三仰天致し、虎口を甘げ井ノ口居城へ引き入るなり。 」 ...続きを見る

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2007/10/19 08:40
美濃国へ乱入し五千討死の事
加納口の戦いは、『亨禄以来年代記』や『信長公記』には天文十六年になっていますが、天文十三年(1544) 信長公十四歳のときのことです。 ...続きを見る

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2007/10/18 06:28
あづき坂合戦の事(その4)
「 爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ候なり。 」 ...続きを見る

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2007/10/17 07:47
あづき坂合戦の事(その3)
「 則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて備後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆、織田備後守、織田与二郎殿、織田孫三郎殿、織田四郎二郎殿、織田造酒丞殿、是れは鎗きず被られ、内藤勝介、是れは、よき武者を討ち取り高名。那古野弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かかり合い々々、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。前後きびし... ...続きを見る

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2007/10/16 06:17
あづき坂合戦の事(その2の3)
『三河物語』の場合は、上和田砦をはじめとした五六砦の奪取、松平三左衛門尉(忠倫)の暗殺などは、竹千代が人質になる以前のことであったとしていますから、年月は明記しないのですが、天文十七年の戦いを指していることは明白です。 ...続きを見る

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2007/10/15 07:42
あづき坂合戦の事(その2の2)
『改正三河風土記』では ...続きを見る

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2007/10/13 09:12
小豆坂合戦の事(その2)
「 駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出し候。 」 ...続きを見る

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2007/10/12 20:28
あづき坂合戦の事  天文十一年(1542)
一般には、天文十一年と十六年の二度あったとしますが、『静岡県史』は今川氏の軍勢が天文十一年に西三河まで進出していたとは考え難いとして第一次戦を疑問視していますし、横山住雄氏・小和田哲夫氏などは、天文十七年の戦いだけであるとされていますし、平野明夫『三河松平一族』で北条氏康が信秀に宛てた書状を文字通り解釈して天文十六年の一回だけであるとされています。 ...続きを見る

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2007/10/11 07:44
尾張国かみ下わかちの事(その4の3)
「 御不便限りなく、天王坊と申す寺へ御登山なされ、那古野の城を吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。 」 ...続きを見る

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2007/10/10 17:21
尾張国かみ下わかちの事(その4の2)
(12)国中、那古野へ越させられ・・・『新修名古屋市史第二巻』は「来させられ」として国中から普請のための人足を呼び集めたと読み、那古野の「城館」を堅固な「城砦」に拵えたとします。 ...続きを見る

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2007/10/09 10:51
尾張国かみ下わかちの事(その4)
「代々、武篇の家なり。備後殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ、御手に付けられ、或る時、備後守が国中、那古野へ越させられ、丈夫に御要害仰せ付けられ、嫡男織田吉法師殿に、一おとな、林新五郎。二長、平手中務丞。三長、青山与三右衛門。四長、内藤勝介。是れらを相添へ、御台所賄の事平手中務。 」 ...続きを見る

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2007/10/08 14:25
尾張国かみ下わかちの事(その3の2)
(7)勝幡・・・勝幡と言う地名は本来塩畑(しおはた)と呼ばれていたものを、信定か信秀のいずれかが「縁起が悪い」と、「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したものであるといわれます。 ...続きを見る

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2007/10/06 09:03
尾張国かみ下わかちの事(その3)
「 弾正忠と申すは、尾張国端勝幡と云ふ所に居城なり月巌、西巌、今の備後守舎弟与二郎殿、孫三郎殿、四郎二郎殿、右衛門尉殿とてこれあり。 」 ...続きを見る

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2007/10/05 06:23
尾張国かみ下わかちの事(その2の2)
「尾張ノ国は八郡なり」の上下の問題。 ...続きを見る

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2007/10/04 09:15
尾張国かみ下わかちの事(その2)
「 半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随へ、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に候て守立て申すなり。大和守内に三奉行これあり。織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠、この三人、奉行人なり。 」 ...続きを見る

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2007/10/03 08:37
尾張国かみ下わかちの事
(2007.12.14 一部訂正) ...続きを見る

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2007/10/02 10:34
NHKは良識をもて!
過日、NHKが「第295回天才信長をつくった男 〜今川義元」という番組を放映した。 ...続きを見る

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2007/07/24 10:18
今川義元が通った近崎道 その2
6月14日に、今川義元が桶狭間山に登るために通ったとされる近崎道についての私見を披瀝し、そのうえで「有松人」さん<http://www.arimatsu.or.jp/okehazama-top.html>に近崎道という大変マニアックなことについて質問してそれに回答をいただき、さらに近崎道池と森脇池という益々マニアックな質問にも、「有松人」さんから再度丁寧な回答をいただきました。 ...続きを見る

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2007/07/03 08:38
義元へ献上された酒は何処で買われたか
最近読んだ本に刺激されて、桶狭間村民が戦勝祝に義元に献じたという拾樽の酒はどこから仕入れたかを考えてみました。 ...続きを見る

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2007/06/20 08:52
桶狭間山の条件
『信長公記』には、「勢衆揃へさせられ様体(戦況を)御覧じ、御敵今川義元は四万五千引率し桶狭間山に人馬の休息これあり」という文章があります。 ...続きを見る

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2007/06/19 09:47
今川義元の塗輿について考える
義元が沓掛城より桶狭間村までは塗輿に乗ってきただろうことは、『信長公記』に「義元は塗輿を捨てて逃げた」と書かれているので間違いないと思われます。 ...続きを見る

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2007/06/18 14:09
近崎道を今川義元が通ったて、知ってました?
今川義元が沓掛城から桶狭間山の本陣に行くのに、どのような経路を通ったかは興味のあるところです。 ...続きを見る

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2007/06/14 09:55
桶狭間合戦の前哨戦(上)
『久野氏+諸氏ミニ情報』というHPから桶狭間合戦に関する情報を紹介します。 ...続きを見る

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2007/06/09 17:04
『信長公記』No72.地図を添付しました。
やっと地図を添付できるようになりましたことをお知らせします。 第1回(桶狭間合戦の問題点)に航空写真を、第23回(迂回奇襲)には手製の地図を添付してみました。、第71回(戦人塚)にも地図を貼りました。 ...続きを見る

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2007/04/11 14:08
戦人塚『信長公記』No71.
桶狭間の戦いでの戦死者二千五百余人を大脇村の曹源寺二世快翁龍喜和尚が埋葬供養したといわれる「戦人塚」が、国道1号線の北150mの小高い丘上にあります。 「駿河塚、千人、仙人」とも呼ばれます。 ...続きを見る

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2007/04/07 06:27
『信長公記』を読むNo69.三倍の法則?
ランチェスターの法則には三倍の法則というのがあるというのですが、E=1と仮定した場合のA2=√(A12−B12)にA1=3、B1=1を代入すると、この解は√(9−1)=√8≒2.8≒3ということなのだと思います。 ...続きを見る

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2007/04/03 09:03
桶狭間合戦とランチェスターの法則5『信長公記』No67.(一点集中)
「一点集中」も、劣勢な信長(弱者)の戦略として敵を分散させ相対的な優位を得るために必要であるといいます。 ...続きを見る

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2007/03/30 08:24
桶狭間合戦とランチェスターの法則4『信長公記』No66.(陽動作戦)
「陽動作戦」も、劣勢な信長(弱者)の戦略として敵を分散させ相対的な優位を得るために必要であるとランチェスターの弱者の戦略はいいます。桶狭間合戦のときの今川勢のように、敵が勝手に分散してくれれば問題はないのですが、そんなに都合のよい事がそうそう起きるわけがありませんから、「陽動作戦」で敵を分散させよというわけです。 ...続きを見る

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2007/03/29 07:44
桶狭間合戦とランチェスターの法則3『信長公記』No65.(局地戦)
ランチェスターの「弱者の法則」は、劣勢な信長(弱者)の戦略として、敵を分散させ相対的な優位を得るために「局地戦」が必要であることを強調します。 ...続きを見る

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2007/03/28 07:53
桶狭間合戦とランチェスターの法則A『信長公記』No64.(兵力の集中と接近戦)
さて、織田信長は今川義元の征西を前にして、ランチェスターの弱者の法則のいう「五大戦略」をとったと言えるでしょうか。 まずは、「兵力の集中」からをみてみます。 これは、劣勢な信長(弱者)の戦略としては、敵(今川義元)の兵力を分散させ相対的な優位を得るために、自身(信長)は結集することが必要であるというわけですから、極めて常識的な戦略ですね。 ...続きを見る

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2007/03/27 12:22
桶狭間合戦とランチェスターの法則@『信長公記』No63.
桶狭間合戦にはランチェスターの法則が云う「弱者の戦略」が働いていたといえるでしょうか。第卅四回ではランチェスターの第二法則は「技術的な優位」は甚だ僅少な効果しかもたらさないということを書きましたが、今回は信長が本当に「弱者の戦略」をもって桶狭間の合戦に臨んだといえるかを検証してみたいと思います。 ...続きを見る

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2007/03/26 09:51
桶狭間合戦とアルデンヌ突破作戦「とんでも説」
「とんでも」説を弄ぶのは面白い。頭の体操になります。何故、その主唱者はそのように考えたのか、その説が成り立たない決定的な証拠はないかなどを考えることは、濫読家の楽しみの一つです。 ...続きを見る

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2007/03/23 08:10
『信長公記』No61.桶狭間山の植生
今日は、桶狭間山について考えます。と言っても、その場所についてはよく分かりませんので、山の様子について考えます。 ...続きを見る

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2007/03/22 10:43
『信長公記』で桶狭間の戦いを読む(第六十回)
「戦国大名が戦争で損害を受けることを忌避したか」という問題に戻ります。 ...続きを見る

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2007/03/21 08:19
『信長公記』で桶狭間の戦いを読む(第五十九回)
今日は、訂正があります。「戦国大名が戦争で損害を受けることを忌避したかという問題」は次回に繰り延べます。 ...続きを見る

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2007/03/20 08:55
『信長公記』で桶狭間の戦いを読む(第五十八回)
今日も、DV(ドメステックバイオレンス)と古代史は同型であると、私が勝手に思い込んでいるという話しです。 ...続きを見る

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2007/03/19 09:58
『信長公記』で桶狭間の戦いを読む(第五十七回)
家父長制的な農業経営がなぜ奴隷制的になるのは、現代のドメステックバイオレンスや幼児虐待と同じ構造であり、それがゲマインシャフトだからだと思うという、前回からの続きです。 ...続きを見る

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2007/03/18 08:18
『信長公記』で桶狭間の戦いを読む(第五十六回)
戦国大名は、「戦争で損害を受けることを忌避したか」ということを考えます。つまり、「兵農未分離であったから、耕作をするものがいなくなると困るし、戦死者の遺族には補償をしなければならないから、損害を避けた」とする通説は本当かをみてみたいと思うのです。 ...続きを見る

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2007/03/17 10:12
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第五十五回)
今日は今川義元が負けた原因について考えています。そして、こう思いました。 そもそも「撤退は難しい」からではないか。 つまり、義元が撤退をさっさと済ませなかったことが敗因であるということです。桶狭間合戦での今川義元が、織田方を攻撃する態勢でなかったことは、第五十一回に書きました。先備を立てただけで、右翼にも左翼にも部隊を展開していないからです。 ...続きを見る

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2007/03/16 14:59
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第五十四回目)
藤本正行氏の「信長の戦争」では、「攻撃側」が交渉で開城させることの目的は、「兵士・物資を消耗することなく、また城を損なう事無く」手に入れるためと書かれていることについて考えてみました。 ...続きを見る

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2007/03/15 15:06
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第五十三回)
今日も姉川合戦を読みます。藤本正行氏の「信長の戦争」と河合秀郎氏の「日本戦史・新説姉川合戦」、参謀本部編「姉川の役」を読み比べました。 ...続きを見る

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2007/03/14 07:57
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第五十二回)
今日は姉川合戦です。なぜかといいますと、藤本正行氏の「信長の戦争」では、牛一の信長公記における地理や方角の記載は正確だと主張されているからです。 83頁「信長公記は地理の描写が精密かつ具体的で、これを現地の地理に照らし合わせると、きわめて正確であることが認められる」。 88頁「信長公記は戦場における部隊の布陣あるいは戦闘の方向を、丹念に記録している。(中略)こうした点を記録したことは第一線の戦闘員牛一の関心事が奈辺にあったかを示している」。 158頁「牛一は地理描写に常に気を配っているから... ...続きを見る

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2007/03/13 10:02
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第五十一回)
今日は、藤本正行氏の「信長の戦争」の桶狭間合戦の附図(80頁)について疑問を少々。 ...続きを見る

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2007/03/12 08:47
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第五十回目)
さて、今日は大高城にいた水野氏の一族について考えます。 江戸時代以前の水野氏の系図については信用できるものはなさそうですので、一切ふれません。 ...続きを見る

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2007/03/11 07:58
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十九回目)
なぜ今川義元が大高城の救出を第一目的にしたのかというのが、今日のテーマです。 ...続きを見る

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2007/03/10 08:00
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十八回目)
ところで、今川義元はなぜ鳴海城を先に救援しなかったのでしょう。 ...続きを見る

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2007/03/09 07:57
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十七回目)
今日は、藤本正行氏の「信長の戦争」で唱えられた勝敗の原因に対する疑問の続きで。前提Bの「ミッドウエー海戦時の日本海軍当事者は、矛盾する目標をもっていたか」について考えます。 ...続きを見る

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2007/03/08 10:43
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十六回目)
今日は藤本正行氏の「信長の戦争」で桶狭間合戦をみてみます。氏の業績である「正面攻撃説」については、第廿二〜廿四回でどのように解釈すべきかを、独断と偏見で自信をもって書きましから、今回は藤本正行氏のいう「信長の勝因・義元の敗因」について考えてみたいと思います。 ...続きを見る

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2007/03/07 09:05
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十五回目)
日本史小百科「城郭」の粗探しを続けます。 ...続きを見る

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2007/03/06 08:00
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十四回目)
今日も日本史小百科「城郭」に、いちゃもんをつけています。 ...続きを見る

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2007/03/05 08:52
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十二回目)
今日は第四回に書いた「義元は大高からの帰還途中だった」説の続きを書きます。 ...続きを見る

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2007/03/03 08:46
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十一回目)
信長公記を続けますと、「さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛(元信)楯籠り候。降参申し候間、一命助け遣はされ、大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・(重)原、鴫原の城、五ヶ所同時退散なり」とあります。 ...続きを見る

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2007/03/02 08:53
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第四十回目)
今回も黒田日出男氏の「乱取状態急襲説」について考えています。 まだ「立正史学」を入手していませんので、新聞記事だけからの考察です。 ...続きを見る

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2007/03/01 11:42
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅九回目)
暫く病気治療のためお休みしていましたら、大変な情報が飛び込んできました。群馬中日新聞の平成十九年二月十二日付けの記事をご覧になったでしょうか。そこには、県立歴史博物館長で東京大名誉教授でもある黒田日出男氏が、「その日の戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」という意味の文言を甲陽軍鑑のなかに見つけ、乱取状態急襲説と銘打って立正史学に発表したというのです。 ...続きを見る

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2007/02/19 08:27
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅七回目)
今日も少し脱線して、『信玄の戦争/戦略論孫子の功罪』という本の続きを49頁から始めます。 ...続きを見る

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2007/01/21 11:30
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅六回目)
閉話休題。今日は、NHKが大河ドラマで山本勘助を始めたので、海上知明氏の『信玄の戦争/戦略論孫子の功罪』というのを読みました。 ...続きを見る

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2007/01/20 13:02
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅五日目)
「爰に河内二の江の坊主、うぐゐら(弥富町・鰍浦)の服部左京助(友定)、義元へ手合せとして、武者舟干(二十?)艘計り、海上は蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、別の働きなく、乗り帰し、戻りざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、(熱田の)町人ども寄せ付けて、焜と懸(駆)け出で、数十人(を)討ち取る間、曲(しかたも)なく川内(河内)へ引き取り候ひき」 ...続きを見る

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2007/01/19 12:59
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅四日目)
今日は、ランチェスターの法則で桶狭間合戦を考えることにしました。 ランチェスターの第一法則では、一騎打ち型の戦いで武器の性能が同じであれば、損害の割合は数の多い少ないに関わらず同じであり、数の多い方がその差分だけ勝つといいます。 ...続きを見る

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2007/01/18 12:12
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅三日目)
「二俣の城主松井五八郎(宗信)・松井一門一党二百人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其の数、討死候なり」と、『信長公記』にはあります。 ...続きを見る

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2007/01/17 11:31
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅二日目)
戦国時代をイノベーションのジレンマで解き明かすのは、最後にとっておきます。 ...続きを見る

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2007/01/16 11:18
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第卅一日目)
山口左馬助は、東からくる今川義元と信長を計りにかけて信長を捨てたのですが、それを左馬之助に決めさせたような事件が何かあったのでしょうか。 ...続きを見る

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2007/01/15 10:53
『信長公記』で読む桶狭間合戦。第卅日目
「山口左馬助・同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御目にかけられ、鳴海在城(させて置かれたのであるが)、不慮に(はからずも備後守が)御遷化(死去)候へば、程なく厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節をなし、居城(である)鳴海へ引入れ、知多郡(は義元方)御手に属し、其の上、愛知郡へ推し入り、笠寺と云ふ所に要害を構へ、岡部五郎兵衛・かつら山(葛山備中守)・浅井小四郎・飯尾豊前(守)・三浦左馬助(が)在城。鳴海には子息・九郎二郎を入れ置き、笠寺の並び中村の郷(を)取手に構え、山口左馬... ...続きを見る

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2007/01/14 08:57
『信長公記』で読む桶狭間合戦。第廿九日目
義元が敗れた原因について、駿河勢の大軍が行軍途中であって、行軍隊形のまま山間の隘路で休憩をとっていて身動きできなかったかのように云う人もいますが、これは常識で考えても有得ないように思います。 ...続きを見る

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2007/01/13 16:01
『信長公記』で読む桶狭間を合戦。第廿八回
信長公記を読み進めます。 ...続きを見る

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2007/01/12 13:08
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿七日目)
では、もう一つ、信長で有名な「三間間半の長柄鑓」は、桶狭間の合戦で有効に使われたでしょうか。 ...続きを見る

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2007/01/11 11:15
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿六日目)
信長といえば鉄炮ですが、桶狭間合戦で信長の鉄炮が活躍した形跡はありません。ところが、信長公記には「弓・鎗・鉄炮・幟・指物等を乱すに異ならず、今川義元の塗」と記しており、駿河勢が鉄炮を所持していたことが窺えるのですが、この点を指摘した歴史学者はいません。 ...続きを見る

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2007/01/10 17:33
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿五日目)
前回は、義元が輿に乗っていたからといって弱い大将であったわけではないといったのですが、ネットで義元を検索してみると、義元が軍勢を率いて合戦をした経験がなかったように思えます。 ...続きを見る

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2007/01/09 10:17
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿四日目)
「(義元の)旗本は是なり。是へ懸かれと御下知あり、未(ヒツジ)の刻、東へ向かって懸かり給ふ。(義元は)初めは三百騎計り(が)真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ々ゝ、次第々々に無人になって、後には五十騎計りになりたるなり。信長(馬から)下り立って若武者共に先を争ひ、突き伏せ、突き倒し、いらつたる(血気にはやる)若者ども、乱れかかってしのぎを削り、鍔を割り、火花を散らし、火炎を降らす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相紛れず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、... ...続きを見る

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2007/01/08 10:42
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿三日目)
昨日は、信長が中嶋砦からは東海道を西に向かって前進し、三叉路になっている鎌研・祇園寺辺りの坂道にかかる山際まで来たのでした。そこで、信長は縦隊になって行軍している味方軍兵の集結を待ちます。待ち構えている敵に対して、行軍隊形のままダラダラと突撃しても効果がないからです。 ...続きを見る

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2007/01/07 09:14
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿二日目)
「空晴るるを御覧じ、信長、槍をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かかれ、ゝゝゝと仰せられ、黒煙立て懸かるを(信長勢を)見て、(敵は)水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり」 ...続きを見る

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2007/01/06 11:06
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿一日目)
「(信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(ツラ)に打ち付くる。身方は後ろ方に降りかかる。沓懸の到下(峠)の松の本に、二かい(抱え)、三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る々。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し候なり」 ...続きを見る

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2007/01/05 09:50
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第廿日目)
新年の信長公記も兵力について考えます。義元が慌てたりすることなく、二千人の信長が挑戦しようと決心できる駿河勢の兵力についてです。 ...続きを見る

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2007/01/04 06:26
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十九日目)
「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども、爰にての御諚は、各よくゝゝ承り候へ。あの(今川の)武者(は)、(前日の)宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。(勝敗の)運は天にあり。この語は知らざるや。(敵が攻撃を)懸らば引け、(敵が)退りぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事。案の内なり(たやすいことである)。分捕りなすべからず。打捨てになすべし。... ...続きを見る

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2006/12/30 08:27
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十八日目)
桶狭間合戦の双方の兵力についての続きです。早い話が、義元の兵力の実際のところはわかりません。みな推測です。 その代表的なものは、近世初頭の軍役規定を当て嵌めて考えたものです。領国の生産高を規準ししていますが、桶狭間合戦当時の生産高などは判りませんから、これも後世の石高からの推測です。それも、動員能力を推定するだけで、実際にそれだけ動員したかどうかはわかりません。 ...続きを見る

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2006/12/29 07:59
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十七日目)
「此時、(信長勢は)二千に足らざる御人数の由、申し候。(信長公は)中島より叉、御人数出され候」と、云うわけで、いよいよ桶狭間合戦に集まった、双方の兵力について考えます。 第七日目には、義元軍については軽くふれています。 ...続きを見る

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2006/12/28 09:59
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十六日目)
桶狭間合戦も前哨戦については、何も解決しませんでしたので、先へ読み進みます。 ...続きを見る

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2006/12/27 11:25
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十五日目)
今日は、桶狭間合戦の前哨戦の続きを考えてます。Xマスで二日間のお休みでしたから、頭は冴えてます。 ...続きを見る

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2006/12/26 06:35
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十四日目)
小和田哲夫著「桶狭間の戦い」から、前哨戦について調べてみました。 ...続きを見る

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2006/12/23 19:03
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十三日目)
また、桶狭間合戦の前哨戦の話です。この佐々隼人正、千秋四郎の二人が戦った前哨戦は、分からない事だらけです。 ...続きを見る

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2006/12/22 12:50
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第十日目)
名古屋市緑区役所に行ってきましたよ。ちょっと前に名古屋で集中豪雨があったから、きっとハザードマップがあるに違いないと思ったわけです。思ったとおりありましたよ。天白川洪水ハザードマップ。 ...続きを見る

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2006/12/19 09:14
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第九日目)
今日は、駿河先鋒隊の朝比奈備中が水浸しで動きをとれなかったどうかを調べました。 ...続きを見る

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2006/12/17 13:07
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第八日目)
今日は、迷子になった朝比奈備中守の行方を捜します。 鷲津砦を攻略した今川義元の筆頭家老だという人の軍勢が行方不明のままなのです。 ...続きを見る

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2006/12/16 16:26
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第七日目)
今日の段。 ...続きを見る

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2006/12/15 15:12
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第六日目)
冷静に、小和田先生の言い分を考えてみました。 ...続きを見る

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2006/12/14 08:17
『信長公記』で桶狭間の戦いを読んでます。(第五日目)
今日は、昨日の文章の手前に戻ります。 ...続きを見る

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2006/12/13 09:03
『信長公記』を読んでます。(第四日目)
最近では、「桶狭間の合戦は、信長の情報収集能力の勝利」だとする人が多いと思います。 でも、私はそうは思いません。 ...続きを見る

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2006/12/12 10:18
『信長公記』を読んでます。(第三日目)
きょうは、『信長公記』を前日からの続きから読んでます。 ...続きを見る

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2006/12/11 09:30
『信長公記』を読んでます。(第二日目)
借りてきましたよ。小和田哲夫著「桶狭間の戦い」と、旧帝国陸軍参謀本部編の「桶狭間の役」。 ついでに、豊明市史の「資料編補二桶狭間の戦い」というのも借りてきました。地図つきです。 ...続きを見る

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2006/12/10 09:45
『信長公記』を読んでます。(第一日目)
読み始めた本は、教育社新書の原本現代訳『信長公記』です。 面白そうなところからの順次、拾い読みです。 今日は、(廿四)「今川義元の最後」の条です。 ...続きを見る

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2006/12/09 10:08

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