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『尋憲記』によると、天正二年(1574)三月の京都人の噂では、信長が五摂家の近江殿になり、子・茶筅が将軍になるという噂が専らであり、関白の二条晴良が信長に関白職を譲るだろうとの噂もあったという。 『大日本史料』では近江殿を近衛殿の誤りとしている。即ち、信長が公家のトップになり、茶筅が武家の棟梁になると噂しているというのである。 一見すれば、このような理解でもよさそうに見えるが、これは何かおかしい。 何が可笑しいかと言えば、信長が公家のトップになることにメリットがないからである。 まして、朝廷と幕府を両立させ、公家である信長が上位となったならば、信長が生きているうちは良いとしても、信長が死んだならば直ぐに分立して混乱することは目に見えている。 従って、合理主義者の平信長が近衛姓を名乗るはずがないし、当時の人々もそんなことは考えなかっただろう。 また、「近江殿」=近衛殿であれば、平信長が近衛家の養子になり、関白・二条晴良から関白位を譲られることになる事を考えたのだろうが、当時の近衛前久は九州に在国しており、前久には子供(明丸と尊勢)もいるから、その実現はそう簡単ではないというより、拒否されただろう。前久は明丸に家督を譲りたいと考えていたからである。 京人が、茶筅が将軍になると噂したのは、このときの北畠具豊(茶筅)が嫡男の信忠より家格が高かったからであるが、義昭嫡男・義尋の存在と共に思慮のうちから抜け落ちている。 それに、北畠家は確かに村上源氏の中院庶流ではあるが、とても武家の棟梁たる家柄とは言えない。だから、茶筅を将軍にするには、義昭を罷免しなければならないうえ、茶筅を義昭の養子にしなければ、武家の棟梁としての正統性は得られないだろう。 従って、別の足利の血統を探すことになるわけだが、十代将軍義稙の養子であった江州宰相六角義久(義実)の孫にあたる義郷の養子にする手が考えられるわけである。 これには佐々木哲氏の異説がある。 「近江殿」であれば、これは濃尾守護職に加えて近江守護を兼ねることになり東海管領を意味するから、信長が天正四年から安土に居城を築城し始める事と符合する。その場合には、実力や血統が無くても茶筅が将軍に推任されることにも意味がある。信長は「近江宰相」として将軍連枝の意になり、実質的将軍の後ろ盾になれるからである。 佐々木哲氏のHPによれば、十代将軍義稙の養子・六角近江守義久の母は足利義澄の妹であり、その義久の子が義秀であり、その子または弟が義郷だという。 氏によれば、六角左兵衛佐義郷は、元亀二年九月に焼打ちされた比叡山を、翌年近江蒲生郡に再興しているという。この後の義郷の動向は不明だというのだが、『天王寺屋会記』天正八年二月廿二日条に「佐々木殿」が見えると言うことから、一貫して信長と良好な関係を保っていたものと考えることが可能だと思われる。 氏によると、もう一人、六角氏には織田信長朱印状で、国主・近江修理大夫として信長と和睦した人物がいるのだが、これが義郷(氏郷)の甥・義堯と同一人物だとされている。だが、義堯は一貫して反信長行動をとっていることから、信長は彼を利用することはできないだろう。 こういうわけで、かぎや散人としては、佐々木哲氏がそのHPで主張される、近江殿は近江殿であって、近衛殿ではないと言う説に軍配を挙げたい。 近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く 信長、秀吉、家康らが駆けた戦国の近江18のテーマを詳細なコース図でめぐる/滋賀県教育委員会 オンライン書店boox 著者滋賀県教育委員会(編)出版社滋賀県文化財保護協会発行年月2006年10月ISBN97848832 楽天市場 by ![]() |
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