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help リーダーに追加 RSS 太源崇孚(スウフ)雪斎

<<   作成日時 : 2008/10/08 09:56   >>

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「義元にとっては右腕であり、何よりも幼児から自分を傳育してくれた親代わりのような存在でもあった雪斎の死は、義元に大きな衝撃を与えたに違いないが、そのショックを乗り越えて義元は新しいアクションを起こすことを決意した。西方形略の足場固めのため、自ら三河支配の強化に乗り出すことにしたのだ。」という見方もある。

これは、『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏のものだ。

小生の場合はチョット違う。

義元にはどうも雪斎コンプレックスがあったらしく思うからである。

幼児から傳育され、氏輝が急死して跡目争いが発生すると、雪斎は武田家までをも巻き込んだ花倉の乱を企てて義元を国主につけ、それを機に今川家の外交・軍事を主導し続けてきたため、義元は雪斎の陰に霞んでいたからである。

そこにきて、終に西方戦略で師・雪斎と衝突し決別することになったというわけだ。

だから、義元はホットしただろう。これで永遠に解放されたからだ。

小生は、
既に天文十八年の刈谷城への進出の頃から、義元は雪斎路線との対立が表面化したのではないかと考える。
晩年の雪斎は義元と意見を異にして、葉梨郷(藤枝市)に隠居し長慶寺を再興したともいわれているからだ。

天文十九年(1550)、雪斎は歴世奉勅人寺の例によって、京都妙心寺に入り三月廿九日に妙心寺35世に出世しているのだが、そこを住山三日で退山している。
この時、雪斎が同寺の山門(唐門)を造るため永楽銭五千貫文を寄進したという。
その後、臨済寺の住職として住し、同年四月廿五日には禁裏和漢連歌御会に出席しており、天文廿三年に臨済寺で『歴代序略』を著したという。

雪斎が駿河国に戻ってたのは何時のことかは分からないが、清見寺(静岡県静岡市清水 )、善徳寺(富士市)を歴住したとも言われる。
善徳寺では弟建乗により『聚分韻略』を開板印行したという。

『延宝伝燈録』は雪斎は臨済寺で死んだとしていうが、『国史大辞典』では雪斎の晩年は志太郡葉梨(藤枝市)の長慶寺に隠栖して此処で亡くなったとしている。

長慶寺は、今川家の二代範氏が駿河の本拠地として進出した藤枝市葉梨郷にあり、山城花倉城を築いて麓に居館と家臣団の館をめぐらす城下集落をつくったという因縁のある場所である。
太原雪斎の墓も此処にあって、禅宗の僧侶の墓らしく無縫塔(卵塔)である。

さて、本題に入ろう。

何が原因で衝突したかというと、
その対立の一つは、補給を伴わない海兵隊の上陸作戦による中入りである。

なぜ其のような戦略がでてきたかというと、
もう一つの原因があって、一向宗(本願寺)との提携という戦略を義元が打ち出したからである。

太源崇孚(スウフ)雪斎の母は、今川氏の重臣・興津正信の娘で、横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。………(2009.02.26 挿入: 調べてみると、興津氏の拠点には湊も津もなさそうである。興津氏が今川氏の水軍の一手であったというのは間違いだろうと思い始めている。再調査が必要だ。)

だから、水軍で太平洋を西回りできないことを十分承知していたはずである。
そこで浦伝を三河湾にも施行するのだが、水軍に組織するまでには至っていなかったし、義元も尾三国境に向かうにあたって吉田湊に水軍を発足させてはいないのである。

雪斎は善得寺に入れられて僧となり、京都の建仁寺で常庵龍崇に学んだ。
京都妙心寺の卅五世にまでなっており、駿河臨済寺の開祖でもある。
清見寺は戦乱で焼失していたのを天文九年頃に復興し、善徳寺、長慶寺などの整備にも尽力している。
庵原の一乗寺、遠州の定光寺、三河の実相寺などは雪斎が開いた寺である。

つまり、
雪斎は禅宗(臨済宗)の僧であり武家の宗教として盛隆していた。

一方の、本願寺は武家の封建関係の外で強大な権力を握っており、各地で上級武家と対立していた。
寛正六年(1465)大谷本願寺が山門衆徒に破壊されたとき、三河上宮寺の佐々木如光は三河から取り寄せた金を山と積ませて比叡山を黙らせた。
本願寺への全国からの志納は年間数百貫近くあるほか、本願寺に特有のものとして荘園領主からの御礼金も年間1千貫近くあったという。

後の弘治三年(1557)になると、正親天皇の即位式に際して本願寺は即位式費用を献上した。
そして、この功により永禄二年(1559)十二月十五日、本願寺は門跡寺院になることを勅許されるのである。
信長との石山合戦時には5万石/年集めたともいう。

勅願寺は天皇の発願によって鎮護国家と玉体安穏のために建立された寺院であったが、勅願寺になれば寺格が上るばかりでなく、寺領安堵や守護不入権を獲得できた。
大阪の本願寺が得た特権は、その末寺をも「大阪並み」の特権を主張する根拠とされたのである。
とりわけ各地の本願寺末寺や寺内町に対する「守護不入」の特権は絶大であった。

義元は目先のことしか見えなかった。

後に三河の松平元康は三河一向一揆に苦しむことになり、信長は石山本願寺と十年戦争を戦うことになる。

これまでの寺社は朝廷や貴族の「荘園の寄進」という喜捨によっていたのを、本願寺は広く社会の底辺から現金や物品で喜捨を受けることを採用しその後に、社会的正当性を受けるために朝廷に取り入ったのである。

本質的に戒厳令下の軍事政権を目指す上級武家とは対立せざるを得ないものがその始めからあった。

義元には見えなかったが、雪斎にはハッキリ見えていた。

雪斎は、義元を諦めて身を引いた。

そして、義元は危うい戦略に基づいて西方計略に乗り出して行くのである。




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