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help リーダーに追加 RSS 喧嘩両成敗

<<   作成日時 : 2008/09/05 16:00   >>

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小生の目下の関心は、信長の武士道であり、それと明智光秀の謀叛の関係であり、それに関連して喧嘩両成敗元禄赤穂義士事件がある。

最近、表題の件についてネット検索をかけて目ぼしい論文を探していたら、九州大学法学92号(2006年)の論文に可野恵一氏の『喧嘩両成敗法成立の法史上の意義に関する一試論/戦国大名武田氏の喧嘩処理を手がかりとして』というものがあった。

そこで、小生が驚いたのは、信玄が法度の第十七条に喧嘩両成敗を置いた理由が『甲陽軍鑑』に述べてあることだ。これに着目しないという法はあるまい。………そして此処では、喧嘩はあったが刃傷には至らなかった事件が契機になったとあるのである。

この論文での可野恵一氏の見解は、「甲陽軍鑑がその原因として挙げる赤口関左衛門と寺川四郎右衛門との喧嘩は、あくまで喧嘩の一事例であって、甲州法度之次第の内容全体と関わるものではないため、その真意を測りかねる」というものである。
そして、「闘争を発生させたこと、そして武士としてあるべき行動をとらなかったこと、この二点が信玄を両成敗法制定へと向かわせた直接的あるいは間接的な理由であるということは少なくとも言えるだろう。」と述べられ、結論として、「処遇決定の直接的な理由とされているのは明らかに武士としてあるべき行動をとらなかったことである。
だが、そのことが両成敗法の制定と直接結びつくとは考えにくい。従って、闘争を発生させた要素こそが両成敗法制定とより密接に関連していると解するのが妥当であろう。」とされ、
法度の第十七条は「いい年をして地位もある大人による喧嘩の発生を抑制するため]のものだと言われるのである。

これを読んで、小生はちょっと違う感想を持った。

この事件では初めから喧嘩の原因・理由などは問題にされなかった
それは信玄ばかりでなく、その場で此の事件を目撃した武士たちの感想・世評もなのである。

喧嘩を「いさかい」のままで終わらせてしまったことに問題があるのではない。
当時者が恥辱を晴らさなかったことが問題なのだ。

そして、信玄がこの事件をもって甲州法度第十七条を制定させた理由というのは、現認者(彼等は現役の武士である)たちに現れた世評に「武者道=男道」が崩壊に瀕しているのを発見し、それに危機感を抱いたからであることは明白である。
なぜなら、彼等は胸倉を掴んで押しつけた方が「手柄」だとか、踏み倒した方が「利口」だとかの論争しかしなかったからである。
誰も、相手を討ち果たす挙に及ばなかったかったことを咎めるものが居なかったのだ。

当時の武士にとっては、雑言を浴びせられるだけでも恥辱である。
それが胸倉を掴まれて押しつけられたのである。
検使も信玄も、なぜ両人が脇差しでもって相手を討ち果たす心算がなかったのか不思議に思って聞きただしているのである。

そして、信玄の出した裁定は、「脇指(ノ)心なきは、一向のわらはべ(童)なンどのいさかひ(諍い)といふ物也。抑男が四十・五十にあまり、赤口関左衛門・寺川四郎右衛門なンどと、官途受領まで仕る侍が、いさかひなンどあるは他国の批判もいかゞ。」というものであった。

恥辱を晴らすには死をもって報いるしかないのである。
問題は、恥辱を被った相手が味方(家中)の場合である。
家中の者は主君の臣であるから、それを討つことは謀叛に等しい。
従って自裁をもって完結するしかないのである。
そして、主君をもつ武士たる者は常住座臥その覚悟がなくては男子とは言えないということがある。

その結果、信玄の指図は、「両人ながら召捕、耳鼻をか(欠)きて諸侍に見せ、かり坂をこ(越)させよと有事にて、坂際にてふたりながら頸をきらるゝ也。」というものであった。
切腹という名誉は与えられなかった。
信玄は、二人を武士として扱わなかったのである。

だから、この事件は「両成敗」には、最初から関係がない。
事件は喧嘩として立件されたのではなく、武士道不覚悟の罪によって立件されたのである。

甲州法度第十七条、「一、喧嘩之事、不及是非、可加成敗、但雖取懸、於于令堪忍輩者、不可処罪科、然ニ以贔屓偏頗令合力者、不論理非、可為同罪、若不慮之他ニ犯殺害刃傷者、妻子家内之事者、不可有相違、但、犯科人令逐電者、縦雖為不慮之儀、」

と、言うことは、『甲州法度之次第』第十七条の趣旨は「両成敗」にあるのではないことになる。
武士ならば「男道」を貫け、そうしたならば恥辱をうけてそれを晴らさないということがあろうかということが、当時の武士のコンセンサスとしてある。

それを前提としたうえで………

だが、武士として御恩を受けて奉公している場合には、謀叛は論外である。
そして、主君の臣下を私恨で殺害するのは謀叛に等しい。………これは矛盾であるが、両立させなばならない。
従って、その場を去らずして相手を討ち果たし、自裁するのが道理である。
故に、どちらが生き残ろうとも主君たる者、之を成敗しなければならないという論理になるはずである。

これは、まさしく「公羊伝」の生き方である。

事の是非に及ばないことも明白である。だから、互いに堪忍しろというのである。

『朝倉宗滴話記』第十四条に、「一、人をつかふに、二人こらへ候者あれば、譜第の者を召仕れ候也、其故は先内之者不届事を主人こらへ候、又主人に對し述懷を内之者こらへ候、如此互にこらへぬき候へば、子飼之もの餘多出來大事之時用に立候、大犯三ヶ條之科は、更に主人之成敗にあらず、此段右衞門大夫殿、宗滴へ直に被仰候事、」とあるのは、きっと江戸期に入ってからの教訓を宗滴に託して述べたものなのだろうが、戦国最盛期の分国法とは二味ぐらい違うものになっている。

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