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「 一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。 」 末盛城・・・天文十七年(1548)、東山丘陵の末端で挙母街道を見下ろす標高43mの高台に、織田信秀が三河から来襲するであろう今川に対して、守山城の弟織田信光と連携してあたる目的で築城した。戦国時代の城跡としては、原型に近い姿を残しており、馬出しを示す三日月型の掘もあった。信秀没後は信長の弟勘十郎信行を入れた。弘治三年、信行は重臣達に擁されて信長に対抗したため、信長によって清洲城にて謀殺され、末森城は翌年に廃城となり破却された。 挙母街道・・・『丹羽軍功録・1750』には「岩崎尾三咽喉要害之地」とあり、また「寛政重修諸家譜」の丹羽氏の項には「岩崎は三河の要害たるにより」とある。これは、鎌倉海道が表海道であるならば、裏街道として挙母・諸輪・岩崎を通る挙母街道があり、松平清康は尾張侵攻の際に岩崎を押さえ守山に出ているからである。 「 正月十七日、上の郡・犬山・楽田より人数を出し、かすが井原をかけ通り、龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々に烟をあげ候。 即時に末森より、備後殿御人数かけ付け、取り合い、切り崩し、数十人討ちとり、かすがい原を犬山、楽田衆逃げくづれ候。 何者のしわざ哉覧、落書に云ふ。 やりなはを引きずりながら広き野を、遠吠えしてぞ逃ぐる犬山 と書きて、所々に立て置き候らひし。 備後殿御舎弟織田孫三郎殿、一段格別武篇者なり。是れは守山と云ふ所に御居城候なり。 」 犬山・・・織田信康(小豆坂の戦い・井ノ口城攻め)の嫡男・信清が城主で信長の従兄弟にあたる。信長の妹を娶っているので義理の兄弟でもある。守護代・織田伊勢守信安・信賢親子を破った浮野の戦い・岩倉城攻略でも信長を支援しており、その後も美濃攻めに弟・勘解由左衛門信益を送るなど、一門の要としての役割を果たしている。ところが、伊勢守信安の旧領の分与を巡って信長との折り合いが悪くなり、永禄五年(1562)に離反することになる。一説には軽海の戦いで弟・信益を戦死させた恨みからともいう。 また美濃へ逃げた伊勢守信安が手引きしたともいい、美濃国宇留間(摩)の大沢次郎左衛門これを援護している。 犬山字北古券付近が城跡。 楽田城・・・犬山市字裏之門白山にある楽田小学校付近が城跡。二重掘・東西40間・南北54間と『尾張志』にある。尾張守護代織田久長が永正元年(1504)頃築城したと伝わり、代々織田氏が居城したが織田十郎左衛門信清から信長が奪い返して坂井右近政尚に守らせた。 即時に・・・信秀が即応できたのは、間者によるものか、裏切りか、謀略か、既に常備軍を抱えつつあったのか? 遣繩・・・物や家畜を先に進め移動させるための縄⇒ここでは、犬の曳き縄・手綱 守山城・・・守山字市場、宝勝寺裏手付近が城跡。大永六年(1526)三月二十七日連歌師宗長が連歌会を催したとあるので小幡城、川村城に対応する城として大永年間初期に築かれたと思われる。『新修名古屋市史第二巻』は、「大永六年(1526)三月ころの(松平与一内膳正)信定は本拠三河(碧海郡)桜井(安城)に加えて、尾張守山の地を得たものと思われる。」というから、三河の松平信定(清康叔父)の領有であった。 (天文十八年正月十七日、尾張国は上の郡の犬山城主であった信秀の甥にあたる織田信清が、楽田より兵を出して春日井原を駆け通り、龍泉寺の下の柏井口へ軍事行動をおこし、所々に放火した。 直ちに末森より出撃した備後守信秀殿ハは、駆け付けtw一戦に及び、犬山勢を切り崩し、数十人討ちとったので、犬山衆や楽田衆は春日井原を逃崩れていった。 何者のしわざであろうか、落書に云ふ。 「犬の遣繩を引きずりながら広き野を、遠吠えしてぞ逃ぐる犬山」と書いて、所々に立て置きいてあった。 備後守信秀殿の御舎弟である織田孫三郎信光殿は、一段と格別に武愈勇の人で、この人は守山と云う所を御居城にされていました。) |
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はじめまして。カミタクこと神山卓也 |
カミタク(リンク先は「末森城址(末盛城址... URL 2007/12/23 17:58 |
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