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プロフィール
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| タイトル | 日 時 |
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萱津合戦
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2009/10/25 08:12 |
大森平右衛門尉 その3
前回までの記事での「間違い」を訂正する。 ...続きを見る |
2009/10/08 14:21 |
西加藤家への織田信長判物
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2009/09/22 09:26 |
大森平右衛門尉 その2
七月廿三日町へ出た。安野眞幸著『楽市論』を入手した。一週間かけて第二章<知多郡と篠島商人宛て自由通行令>を読み終え、先のブログ記事を一部訂正する必要が生じた。『楽市論』の安野眞幸氏の説には概ね賛成であるが、結論は違う。 ...続きを見る |
2009/07/28 16:36 |
大森平右衛門尉
「水野氏と戦国談議」の第十五回に,信長の判物が一つ取り上げられていた。談義そのものについては、難しくよくわからないのだが、この判物について多くのコメントも寄せられていた。そこで、これらを拝見したうえで、この判物を読んでみようと思う。 ...続きを見る |
2009/06/21 10:00 |
武功夜話異聞(4)『信長公記』の取手・要害
今回取り上げたいテーマは、『信長公記』での取手・要害そして城の書分けである。 ...続きを見る |
2009/06/04 18:44 |
武功夜話異聞(3)小牧山城引越
前回まで、藤本正行氏が「森辺合戦・十四条合戦・北軽海合戦は永禄四年五月中に連続して起きた一連の事件だ」と云われ、勝村公氏が「永禄四年は森辺合戦、永禄五年が十四条・北軽海合戦である」とされたことを紹介し、確かに藤本氏の論拠だけでは、全てが永禄四年五月中に起きたとは断定できないことを示した。 ...続きを見る |
2009/06/03 21:26 |
武功夜話異聞(2)
『信長の戦国軍事学p122』(1993年)で藤本正行氏は、森辺合戦・十四条合戦・北軽海合戦は永禄四年五月中に連続して起きた一連の事件だといわれる。 ...続きを見る |
2009/06/02 12:25 |
武功夜話異聞(1)
勝村公氏の『武功夜話異聞』を読む。 ...続きを見る |
2009/06/01 21:00 |
北条氏康文書
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2009/05/13 06:01 |
上野原の会見
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2009/03/13 12:05 |
蟹江城の戦い
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2009/03/12 16:47 |
手取川の戦いの裏側
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2009/02/24 12:13 |
手取川の戦い
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2009/02/23 16:50 |
太源崇孚(スウフ)雪斎
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2008/10/08 09:56 |
信秀の葬儀(その2)
前に「万松寺で織田信秀の葬儀が行われたか」というテーマで(2007/12/12 10:46)記事を書いているが、『信長公記』が描くのは、信秀の葬儀を行ったときの模様などではないと小生は思う。 ...続きを見る |
2008/10/07 05:31 |
大脇村の曹源寺と桶狭間村の長福寺
前に、曹源寺と梶野党について、よく分からないと書いた。その後、調べてみて分かったことを書く。 ...続きを見る |
2008/10/06 06:05 |
松の本
「余の事に、熱田大明神の神軍がと申し候なり。」…よく考えてみると「誰が」という主語の部分がない。 ...続きを見る |
2008/10/04 22:45 |
今川義元の手紙(その2)
「山口左馬助教継は両者(信秀と義元)の間に立って和平斡旋に奔走したのではなく、義元に味方すると言って来たのだが、それに反してトップダウンで今川・織田の講和が成立したために刈谷城攻撃も中止されて解放が決定した。そして、それ(突然の講和)に対して今川方につくと申し出ていた教継はハシゴをはずされた格好になり、不服を申し立てるかもしれないが、不満を持つ事の無いよう、素直に従って、講和に協力するよう、よく言い聞かせてくれ、と言っているとしか理解できないのだ。」 ...続きを見る |
2008/10/03 21:44 |
信長軍の速度
『新説・桶狭間合戦』の橋場日月氏は、「信長は時速6kmほどで(清洲から熱田までの)12km弱を移動した計算になる。これは旧日本陸軍の標準的行軍速度の時速4kmより若干早い速度だ。信長は、後続の軍勢が追い付いて来られる速度で進んだのである。p173………信長が善照寺砦から分派して鎌倉往還を東進させた部隊は、途中暴風雨が吹きはじめる中、今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至り、さらにこの部隊は大高道を南下して上ノ山に至る。距離はほぼ3km強であり、………旧陸軍が通常行軍を時速4km、「速歩」という強行... ...続きを見る |
2008/10/03 07:36 |