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鉄炮長
『信長公記』十五巻・信長公甲州より御帰陣の事に「路次通り鉄炮長(ダケ)竹木を皆(海)道ひろゞゝと作り」とある。これを何と訳して良いか分らなかった。角川版は、「鉄炮の長さ。鉄砲隊が通れるように竹木を伐り払って道を拡張した意であろう。」と注しているが、納得できないものがあったからである。
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2012/01/12 19:38 |
桐野作人著『織田信長』(36)
p442.に「秀吉は西国で(信長譲りの残虐さで)厳しく攻める可責をし、その成果というべき見上げ=土産を持参せよと信長から発破をかけられていたことがわかる。」とあるが、是はどう考えても誤訳だろう。
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2012/01/10 13:23 |
近衛信長
『尋憲記』によると、天正二年(1574)三月の京都人の噂では、信長が五摂家の近江殿になり、子・茶筅が将軍になるという噂が専らであり、関白の二条晴良が信長に関白職を譲るだろうとの噂もあったという。
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2012/01/10 07:55 |
桐野作人著『織田信長』(35)
橋本政宣(1982)氏は、陣宣下に不可欠な陣座の普請をめぐる信長の義昭への対抗心が興味深いといわれるらしいのだが、これにも異見がある。前回述べたように、かぎや散人の見解では、信長が目指した公家一統とは天皇の象徴化であったから、何事も伝統に則って正式であることが求められることになる。だから、信長が義昭を非難する、朝家に対する無沙汰・御油断とは、「仮に取り立て了」というようなことも言うのであろう。だから、信長には、義昭への対抗心などはなかったはずである。象徴化すべき対象にライバル意識を持ってしまって...
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2012/01/08 13:12 |
桐野作人著『織田信長』(34)
天正三年十一、信長は従三位権大納言に叙任され右近衛大将を兼ねたのだが、桐野氏は「信長の真意は将軍以上で、足利将軍越え、とくに義昭越えを達成したという認識ではなかっただろうか。」とされる。しかし、これには異見がある。なぜなら、信長の目指した政体は、政教分離と武家血統からの独立であったと考えるからである。
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2012/01/08 12:13 |
桐野作人著『織田信長』(33)
p178.「信長が箕作城を「御馬廻」=旗本馬廻衆に攻めさせたのは、他国衆の戦意のほどに疑念があり、それほど信頼していなかったからだろうが、それとは裏腹に尾張統一段階でよく見せた旗本馬廻衆を駆使した戦い方に習熟していたせいだろう。」とあるが、異見がある。
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2012/01/07 16:40 |
桐野作人著『織田信長』(32)
p347.「信長が義昭との交渉に必要以上の時間を費やしたのは、義昭を筋目を通さない公方であり、これでは公儀失格だという印象を世間に与えることで、義昭との戦いを正当化するためだった。」とあるが、これは間違いだと思う。
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2012/01/07 10:16 |
異見十七ヶ条
『織田信長』で桐野作人氏は、「信長は義昭に宛てて異見十七ヶ条を送り付け、厳しく弾劾した。」とされるが、これには不同意である。何故ならば、これまで元亀三年五月十三日付けで足利義昭が信玄から誓詞を誓う起請文『戦武4049(大槻文書)』を受けとったとされてきたものが、鴨川達夫によって元亀四年の信玄他界後のものであるとされたからである。
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2012/01/05 16:57 |
元亀三年とは何か
信長が当初描いた戦略が挫折したという意味で一つの画期である。
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2012/01/05 14:47 |
本願寺参戦の不思議
『勧修寺文書』は、「信長」が大坂本願寺に対して「謀叛」が「重々歴然」としており、「上意」(義昭)が「信長」に「御一味」して「御儀絶」したことを理由に、下間「証念」頼総が「上意」と「信長」へ宣戦布告したのだという。
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2012/01/01 16:24 |
桐野作人著『織田信長』(31)
p159.「信長は龍興との和睦と共に上洛の準備を始める。…信長が逡巡し始めるのである。それはおそらく龍興が和睦の約束を遵守しないのではないかという不安のためだろう。…義秋による藤孝と惟政を介した(六月十日以降の)必死の説得が功を奏したのか、信長は再び上洛を誓う。それを受けた義秋もまた(七月下旬に)畿内近辺の大名や国人たちに報じ合力をするよう命じた。…閏八月十八日付けの信玄宛連署状によれば、(実際は、河野島の敗戦で)信長が上洛を断念してしまったのである。…信長の上洛が無いと判断した三好三人衆は…(...
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2011/12/25 08:39 |
桐野作人著『織田信長』(30)
稲葉山城は、何時そして何故、斎藤龍興に返還されることになったのか。
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2011/12/24 15:49 |
桐野作人著『織田信長』(29)
p144.「すでに義竜が亡いとはいえ、信長は斉藤氏に政略的・外交的に優越する必要があった。その突破口の一つが…輝虎との同盟だったのではないか。」と言われるが、これには事実誤認がある。
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2011/12/24 15:22 |
桐野作人著『織田信長』(28)
p141.「信長は永禄四年から六年にかけて、松平・浅井の両氏と同盟を結ぶことに成功した。」と主張されているが、これは事実誤認だし、「お市との関係についても、通説通りでよいのではないか。」といわれるのだから、矛盾している。
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2011/12/23 17:34 |
桐野作人著『織田信長』(27−4)
西軽海には西村勘九郎(斉藤道三)が居城としたといい、永禄年間には池田勝入の家臣・片桐半右衛門が要害を構えたという伝承がある。そして、『武功夜話』は、「扨永禄酉(四年)四月日、上総介信長様、三千有余之人数相催し森部ニて御取合被成候、作間右衛門尉、森三左衛門、佐々内蔵助、軽身なる処ニ出入仕る、」というのである。だとすると、最初の十九条の合戦は、十四条に布陣して軽海西城と十九条城との連絡を断ち、軽海西城を攻撃・排除しようとした斉藤軍の目的を察知した十九条城の織田広良が後詰に出て起こった合戦だったという...
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2011/12/22 11:43 |
桐野作人著『織田信長』(27−3)
五月廿三日、斉藤方は井之口城から“惣”人数で出兵し、墨俣北方の十四条(現真正町)に進出した。
“惣人数”というから美濃国=斉藤家の全兵力と言う意味であろう。
信長は墨俣から足軽を出したとしか書かないのだが、十四条と墨俣では7km強と距離が有りすぎる。
斉藤勢は何のために十四条にいたのか。朝合戦は何処で戦われたのか。
墨俣合戦という伝承はないのだから、十四条で戦われたのであろう。
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2011/12/22 11:40 |
桐野作人著『織田信長』(27−2)
勝村公(タダシ)氏は、『武功夜話異聞』で、「信長公記は、別項扱いで木曽川・飛騨川を越えたことを再度書いている…(だから)十四条合戦(は)…永禄五年であると見なさざるを得ない。」とされるが、これは是認できない。
何故なら、『信長公記』は雑多なメモの集積であり、十分な校正・編集を経ていないからである。だから、「再度書いている」ことをもって、年次が違うということは言えないのだ。
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2011/12/22 11:36 |
桐野作人著『織田信長』(27−1)
p138・「(森部合戦で)敗退した斉藤方は墨俣を放棄したと見え、代わって信長が当地に要害を築いて帯陣した。すると五月廿三日、今度は井口から斉藤方の新手が押し出して、十四条に陣取った。十四条は墨俣の北にあり二里ほど離れている。織田方が墨俣から足軽を押し出したので、朝合戦となった。織田方は瑞雲庵弟という者が討死していったん引く。斉藤方は十四条のすぐ北の北軽海に移動し、陣を西向きに構えた。」とされる。
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2011/12/22 11:31 |
桐野作人著『織田信長』(26)
p131.「十九日の出発点が首巻が沓掛、『三河物語』が池鯉鮒とする点が異なるが、…首巻の「戌亥」の方角が義元の目的地としてどこを指すか不明ながら、『三河物語』ははっきりと「大高」と書いている。」とある。
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2011/12/20 16:38 |
桐野作人著『織田信長』(25)
p127「今川方全軍の動きや織田方のそれへの対処、あるいは進撃経路といった途中経過が省略されているきらいがあると指摘した。」という認識は、無い物ねだりでしかないだろう。現代におけるニューヨーク観光の旅行記でも成田からニューヨークに行ったと書くことは普通であり、余程のことがなければ成田・ニューヨーク間にかかった時間や道中のランドマークなどは記事にされないだろうからである。牛一の記述に矛盾が生じない限り、何かが省略されていると考える方がおかしいのである。
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2011/12/20 14:22 |